フェリーニの8 1/2

イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ監督1イタリアの映画監督。〈ネオレアリズモ〉から出て〈ネオレアリズモ〉を変革した重要な監督として知られる。の代表的な映画に『8 1/2』21963年製作のイタリア映画。モノクロ作品。フェデリコ・フェリーニ監督の9本目の作品だが,第1作の《寄席の脚光》(1950)はアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督であったので1/2と数え,総作品本数の81/2をそのまま題名にしたものである。(世界大百科事典)という作品がある。
自伝的な内容であることから、ときに『フェリーニの8 1/2』という別題で呼ばれるこの作品が示す帯分数「8 1/2」は、フェリーニの作品本数を意味するものとして知られている。(1/2は共同作品があるため)
つまり、映画のタイトルはフェリーニの8と1/2本目という意味合いになる。
タイトルが暗に示すように、この映画のテーマは映画そのものであり、主人公のモデルも監督のフェリーニ自身である。
そして、この作品は、いわば映画を映画にした画期的な作品として、後世に大きな影響を与えたものとして知られている。
しかし、感動の超大作といった趣の映画ではない。
スランプに陥った40代半ばの映画監督を主人公とするこの作品に、明確なストーリーはないからだ。
監督の苦悩が、幻想的な映像となって、現実と夢が錯綜するように断片的なエピソードが我々に提示される。
フェリーニが映像の魔術師と呼ばれる異名を持つ由縁である。
そして、我々は幻惑的な映像美に翻弄され、いつしかフェリーニが映し出す心象風景の虜になっているのだ。
ここで正直に告白しよう。
実のところ、私はまだフェリーニの魔法が解けていないようなのだ。
なぜなら、コラム本来のテーマから外れて、気づけばこうしてフェリーニの映画を解説してしまっているからである。
しかし、それにはきっかけがある。
それは4つの料金システムアップデートと0.5周年をテーマにハーネス東京のコラムを執筆した折、4と0.5という数字から、私はフェリーニの「8 1/2」を連想し、以来それが頭から離れられなくなってしまったからだ。
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【錦糸町転生】ハプニングからフェティッシュへ
居ても立っても居られず、フェリーニの「8 1/2」を鑑賞した後、何の根拠もなく、私はこのように考えた。
この魔法を解くには、コラムで「ハーネスの4 1/2」を書くしかない――
ハーネス 4 1/2
ハーネス東京は、毎週月曜22時にスペースを配信している。
実際のところは、構成と綿密な打ち合わせによって成立していることから、一般的に想像するスペースというよりはラジオプログラムに近い。
毎回ゲスト(じつは私も出演したことがある)を呼んで配信されるスペースであるが、私にとってさらに興味深いのは、メインのゲスト出演部分ではなく、後半の店舗情報に関するパートである。
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スペース「ハプニング全史」の配信と「全店舗リスト」の公開について
そこでは店のイベントやキャンペーンなどが告知されるのだが、時に苦労話とともに、オーナーの心境が吐露される瞬間があり、奇妙な構図が浮き彫りになる。
それは、ネットで配信されるスペースであるにも関わらず、普段は見せないオーナーの本音が露呈することで、実際の店舗において、常連客としてオーナーの愚痴をカウンターで聞いているような親密性が生まれるからだ。
同じような構図は、フェリーニの「8 1/2」にも成立する。
マルチェロ・マストロヤンニ31924年9月28日 - 1996年12月19日)は、イタリアの映画俳優。第二次世界大戦後のイタリア映画を代表する二枚目スターで、国際的な人気を博した[1]。フェデリコ・フェリーニ監督作品への出演や、ソフィア・ローレンとのコンビで知られる。(Wikipedia)演じる主人公のグイド監督を通じて、フェリーニ監督の映画製作や夫婦に関する心理的葛藤が発せられ、夢幻的な映像ともに秘密を共有したような気分になる。フェリーニの近親者でもなければ、映画関係者でもないにかかわずである。
両者に共通するのは、監督やオーナーなど本来は裏方に回るべき人間が、本来意図しない場面で前面に出てきて、本音と思われるものを吐露してしまうことだ。
ただし、フェリーニの場合は、映画そのものをテーマにした映画を製作することで、意識してそれを実現しているように思えるが、ハーネス東京の場合は、ハプニングであるようにも思える。(もしかしたら、管理されたハプニングであるのかもしれないが)
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【はじまりの記憶】ハプニングの起源について
つまり、映画のテーマそのものが映画、スペースそのものがハプニングというメタ構造である。本来テーマとして客観視すべきものが、実体になってしまっているという倒錯であるともいえる。
二人のファッショニスタ
共通項はそれだけではない。
イタリアの伊達男は、マルチェロ・マストロヤンは、眼鏡とスーツの似合うファッショニスタだ。
ハーネス東京のオーナーも、こだわりの眼鏡をかけて、仕立てのいいスーツを着ている。
スーツと眼鏡にこだわって、相当数所有にしている人は、界隈にもそう見当たらないだろう。
界隈のファッショニスタである。
奇妙な偶然はさらに続く。
作品中のクライマックスで、グイド監督は女性に囲まれながらも、苦悩の果てに、鞭を振り回すのである。
オーナーも、鞭のプライベートレッスンを受けており、このほどオーダー品を完成させたという。
スーツ姿のマストロヤンニが鞭をふるう姿に、オーナーを重ね合わせてしまったのは私だけではないはずだ。
人生はお祭りだ、一緒に過ごそう
冒頭の引用文は作品ラストシーン直前での主人公グイド監督のセリフである。
様々な解釈があるだろうが、苦難を乗り越えたグイド監督(あるいはフェリーニ監督)は、これまでの人生で出会ってきた人たちを、本来映画撮影する予定だったセットに招き入れて夜通し踊り明かす。
8 1/2作目において、ようやくフェリーニ監督は、創造の苦悩を乗り越えて、歓喜に至ったことを宣言しているように思える。
それがフェリーニの最高傑作、映画史に残る名作のラストシーンだ。
ハーネス東京の0.5周年イベントは、さまざまな困難を乗り越えてオープンし、ようやく半年が経ったお店を歓喜で祝う催しになる。
「人生はお祭りだ、一緒に過ごそう」
オープン0.5周年イベントは、正にそのような日になるに違いない。
フェリーニのあと、私たちはハーネスの魔法にかかる――
【了】
【更新履歴】
2022/09/25