【異界へのいざない】新宿ハプニングバーMAPについて

2024-10-01

序章 えびまい氏とのハプニング

裏垢とは、私小説である。
私小説とは、自分を題材にしたフィクションである。

えびまい

アングラ界隈で有名アカウントのえびまい氏は、そう言い残して表舞台から姿を消した。

えびまい氏の言葉に呼応し、私はこう続けた。

ハプバーとは、私小説である。
ハプバーも現実と虚構の間(あわい)に存在する。

はぷがち

裏垢やハプバーも、私小説のように自分自身を題材にしながらも、現実と虚構のどちらにも属していると私は考える。
だから、現実と虚構が交錯する場所にえびまい氏はいるのだろうし、私の現在地もそのような所にある。

そのえびまい氏が突如として公に発言し、界隈が騒然となった。
フィクションである旨が注記された「新宿ハプニングバーMAP」なるものを作成中であり、すでに完成間近であるというのだ。

突然の引退宣言のあと、えびまい氏は卒業制作のように「新宿ハプニングバーMAP」を水面下で作成していたのである。
ここで事実を明らかにすれば、MAPの制作当初より、私はえびまい氏よりサポートの要請を受けており、今まで影ながら支援していたのだった。

失われゆくアンダーグラウンドの記憶をアーカイブする必要を感じ、データを収集してはコラムを執筆していた私にとって、えびまい氏との邂逅は願ってもいないチャンスであった。それはアンダーグラウンドの歴史を辿る作業が停滞していたことに加え、ようやく公開にこぎつけた「全店舗リスト」も思ったような反響が得られていなかったことが背景にある。

そのような状況において、えびまい氏のオファーは事態を打開するための大きな希望の光であったことは言うまでもない。えびまい氏に倣って表現すれば、「即ルーム」の女神が目の前に現れたのである。深刻な地蔵状態に陥っていた私は、手を引かれるままにルームへ引き込まれ、身を委ねることになったのである。それは現実と虚構の間(あわい)のような出来事であったと、今にしては思える。

えびまい氏はどのような思いで「新宿ハプニングバーMAP」を作成するに至ったのだろうか。

このことについて、えびまい氏は次のように語っている。

「長年一人で楽しんでいただけだった趣味のハプニングバーですけど、ここ数年はプレイヤーとしてはもう楽しみ尽くした感があると同時に、あらためて変な趣味だったという気持ちもありました。そこでネットでは手に入りにくいエピソードや情報などを、何かの形にして発表したら面白いじゃないかと思い、MAPを作ってみようということになりました。SNSのアカウントを作ったのも、そういう気持ちと連動しています。SNSは思っていたのと違うという気持ちが大きくなって、先行してやめちゃったんですが。」

つまり、アングラ遊びが一段落したえびまい氏は、ハプニングバーが変な趣味であることにあらためて気づき、今までのエピソードや情報などを何らかの形で残すことを思い立ったというのだ。もっとも以前から、ぼんやりとそのような気持ちはあり、構想を含めれば5年に渡るプロジェクトであったという。

そしてプロジェクトを終え、元の単女として、現実のアンダーグラウンドへ戻っていったのだ。
私の解釈によれば、資本の論理とAIによる計算可能性に覆いつくされたSNSという情報空間ではなく、アンダーグラウンドという名の物理空間に還っていったということである。それは夢であっても現実であってもいいと思えるような全き世界なのだろう。そのような世界を、私は「異界」と呼びたい。

「新宿ハプニングバーMAP」は、えびまい氏が残していった「異界」へのパスポートなのである。

ところで、このコラムの目的は、えびまい氏が作成した「新宿ハプニングバーMAP」に掲載されているのお店について解説を加えることにある。
それは言うなれば、フィクションとノンフィクションの狭間に存在するアンダーグラウンドのお店に、ある種のストーリーを与える行為である。MAPと併せて本解説を参照することで、読んでくださった方々が更なる物語を紡ぐことの手助けになれば、望外の喜びである。アンダーグラウンドの眠れる記憶が呼び起されたときは、XのDMなどで私に情報をフィードバックをいただければ幸いだ。

私たちは先人が築き上げたアンダーグラウンドの歴史を残して、次の世代に受け継いでいく必要がある。

ここからはMAPを参照いただきながら解説文をご覧いただきたい。なおMAPについては、その性質を鑑みて、有償で頒布することとなったようだ。アンダーグラウンドであるということを意識して、ハードルを設けたものとご理解頂ければと思う。

第2章 2つの店、2つのハプニング、1つのアポリア

「ハプニングバーの起源は、新宿の歌舞伎町にある」

2年にも渡って、アンダーグラウンドをリサーチしてきた私がたどり着いた唯一の結論がそれである。言い方を変えれば、これは「元祖ハプバー」と呼ぶべき店は特定できなかったということを示している。

それはアンダーグラウンド黎明期においては、「ハプニングバー」や「ハプニング」の意味するところや、それが指し示すものが、今ほど明らかではなかったことが理由にある。何をもってハプニングバーとするのか。その定義を探るかのように、ハプニングバーの歴史は始まっていったのである。

ここで2つのお店を紹介したい。「グランブルー」と「ピュアティワン」である。それぞれのお店は同時期にオープンし、はじめて「ハプニング」が発生した空間でもある。実は二店には共通のルーツとなるお店が存在する。変態バー「グレイホール」だ。元々は青山にあったものの、その後は新橋に移転したという情報以外はないものの、どうやら変態が集まるバーであったようだ。

店内で何かが「実践」されることはなかったと考えられる。このお店に通っていた常連たちがお店を持つようになり、そのうちのお店に「グランブルー」と「ピュアティワン」があったのである。現在の変態バーとして営業を続ける「マーキス東京」も同店の常連が開いたお店であると聞いたことがある。

実のところ、惜しまれてクローズした錦糸町の「ロタティオン」店主もこのお店の常連であり、「グレイホール」が閉店した際、お店の看板を譲り受けていたのである。Xにグレイホールの看板の画像が投稿されていたことを記憶している人もいることだろう。

話を「グランブルー」と「ピュアティワン」に戻そう。WebArchiveや聞き取りを通じたリサーチによれば、「グランブルー」と「ピュアティワン」は1999年近辺にオープンしたと考えられる。当時のアンダーグラウンドは、ハプニングバーではなく、池袋を中心としてカップル喫茶が隆盛していたが、カップルだけではなく、単独男性にもアンダーグラウンドの門戸を解放したのが「グランブルー」である。

「グランブルー」は入場料を無料として単独女性の集客を進めたほか、現在のハプニングバーのレイアウトを開発した店舗であると考えられる。当時の状況を知る人は、この当時のアンダーグラウンドとしては珍しい大箱であり、お店の内装も非常にこだわっていたと述懐する。このように「グランブルー」は、システムやレイアウトとしてハプニングバーを捉えた場合、著しく革新性を持っていたお店である。

続いて、つい最近の2023年まで営業を続けていた「ピュアティワン」も「グランブルー」と同じ時期にオープンしている。同店は変態バーの「グレイホール」を意識してオープンしたものの、偶発的に店内で行ったハプニングを許容したことから、後に「ハプニングバー」として認識されるようになる。

具体的には、お客同士で「昨日ハプニングが起こった」というような会話がなされ、それが「ハプニングバー」として定着するきっかけになったのである。このように「ピュアティワン」は、コミュニケーションとしてハプニングバーを捉えた場合、時代を先取る先進性を持っていたお店である。

上記を踏まえると、「ピュアティワン」については、システムやレイアウトではなく、コミュニケーションを通じて、自然発生的にハプニングバーが誕生した空間であると考察できる一方、「グランブルー」については、革新的なシステムやレイアウトの導入によって、人工的にハプニングバーを生み出した空間であると捉えることが可能だ。

同時期にオープンした推測される上記二店のどちらかを「元祖ハプバー」とするかは、ある意味では歴史観を巡る対立であり、結論が出ない問題である。

この課題はアンダーグラウンドを巡る最大のアポリア(解決しがたい問題)であると、私は考えている。しかし重要なことは、変態バー「グレイホール」がルーツにあること、両店とも1999年近辺に新宿の歌舞伎町でオープンしたことの2つである。

2つの店、2つのハプニングは、未だアポリアと共にある。

第3章 深海(ディープシー)から地下(アンダーグラウンド)へ

前章ではハプニングバーの黎明期に存在した二つのお店について取上げた。上述の通り「ピュアティワン」については、場所や店名を変えながらも、昨年2023年まで営業を続けていたことはご承知のとおりである。本章ではもう一つのお店「グランブルー」について、その変遷を辿ることとしたい。

詳細は下記のコラムを参照いただきたいが、グランブルーは1999年頃に新宿で誕生した。入居ビルの別フロアにカップル喫茶をオープンしたり、2003年には六本木店にも支店を作りながら、2006年まで営業を続けていた。

本章では「グランブルー」以降の流れについてリサーチした結果について報告させていただくこととしたい。調査にあたっては、下記ブログを参考にさせていただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。

「グランブルー」クローズ翌年の2007年に、同店店主は歌舞伎町に「シルク」という店舗を開き、2011年まで営業している。なお同店の跡地は「ブリスアウト」を経て、現在は「スカーレット東京」になっている。「シルク」がクローズした翌年2012年、同店店主は歌舞伎町に「トゥルーカラーズ」を1年だけ営んでいる。このお店は「カラーズバー」となり現在も営業している。

あくまで独立した立場で、近年まで店を営んで「ピュアティワン」とは異なり、「グランブルー」は人や形を変えながら、いまも在り続けていると考えられるのだ。

ところで、「グランブルー」には前史というべきヒストリーが存在する。同店店主は「オリーブ」というカップル喫茶も手掛けていたのである。今では珍しくないが、フロアをクッション性の高いマットにしたのは同店が最初とのことである。当時のカップル喫茶は仕切られた「ボックス型」と、区切りのない一つの部屋だけの「ワンルーム型」があったようだ。「ボックス型」はカップル喫茶以前に存在した「同伴喫茶」の流れを汲むものであると想像できる。

「オリーブ」はフロアにマットを引いただけでなく、いわゆる「ルーム」を作った最初のお店でもあるようだ。つまり現在のハプニングバーのプロトタイプであったのだ。レイアウトとして考えた場合、「プレ・ハプニングバー」というべきものが、おそらく1990年代後半に「グランブルー」の店主により発明されていたのである。この点は特筆すべき点であると確信する。

「オリーブ」での実績は「グランブルー」でも遺憾なく発揮される。実際に当時を知る人は皆、レイアウトを絶賛している。それは後継店「シルク」についても同様である。

本章も大詰めであるが、「オリーブ」と現在も営業する「オリーブ21」との関係性について気になった読者も多いかもしれない。実のところ、両者の関係性については、人的、資本的連続性がどれだけ維持されているかが定かではないことから、後継店であるか否かの結論が未だに出ていない。

本章のまとめとして言えるのは、1990年代後半に存在したカップル喫茶「オリーブ」において、現在のハプニングバーのレイアウトが生まれ、これが「グランブルー」に繋がって、後にハプニングバーのデファクト・スタンダードになったという事実である。そしてもう一つ、「グランブルー」をルーツに持つお店が今も存在しているということである。

第4章 2つのオリーブ——カップル喫茶とスワッピングクラブ

前章では、店舗レイアウトを視点にあわせて、カップル喫茶「オリーブ」と現在のハプニングバーの連続性について議論を展開した。

カップル喫茶については下記のコラムで取り上げているように衰退期にあるが、現在も都内には2店舗ある。1995年オープンの荻窪「夢の楽園」と、新宿の「オリーブ21」である。「夢の楽園」はいわゆる「ボックス型」であり、カップル喫茶の原型を留めている。「オリーブ21」については、「ワンルーム型」でも「ボックス型」でもなく、「オリーブ」が開発したとされる「ルーム併設型」である。

本章では、「オリーブ」と「オリーブ21」の関係性については端に置いて、「オリーブ21」の源流について考察していきたい。

「オリーブ21」については1990年後半にオープンし、移転を経て現在に至っているものと推測される。「オリーブ21」はカップル喫茶に区分されながらも、前出の「夢の楽園」とはレイアウトも含めて、明らかにコンセプトが異なっているように思える。それはなぜだろうか。本章では、この論点を深く掘り下げていきたい。

ところでアンダーグラウンドの源流は、同伴喫茶の流れをくむんだカップル喫茶、そして変態バー「グレイホール」をルーツとする流れの2つがあるとの仮説を提示したが、それとは別に「スワッピングクラブ」という業態が存在していたことにも注目している。リサーチした結果によれば、スワッピングクラブとは、高価な入会金を支払ってメンバーになる秘密俱楽部のようなものであったと推測される。

比較的に安価なカップル喫茶とは異なり、経済的に豊かな人たちの隠れた遊びであったようだ。つまりカップル喫茶のように変態カップルが集まるのではなく、潤沢な資本力を背景にパートナーの女性を同伴できる選ばれた空間であったと考えられるのである。このスワッピングクラブをリーズナブルにしたお店が新宿にオープンし繁盛する。1990年代後半にオープンした「ドール」である。

リーズナブルなスワッピングクラブと、カップル喫茶の異同について説明するのは難しいが、スワッピングクラブ的な雰囲気を持ったカップル喫茶が「ドール」であったとも推測される。

ともあれ、話題となった「ドール」に影響を受けたお店がオープンする。それが「オリーブ21」である。「夢の楽園」と「オリーブ21」が異なるのは、このようにルーツが異なるからである。

ハプニングバーからもカップル喫茶からも独立し、独自の発展を遂げているにも関わらず、都内のアングラ民にとってはカップル喫茶の代名詞になっているのが、「オリーブ21」というお店なのである。

本章の結論を記せば、「オリーブ21」が他のカップル喫茶とは異なった趣を持っているのは、スワッピングクラブの影響を受けているからである。

第5章 リアリティグループ——フランチャイズ経営の歴史

横浜を中心に展開するリアリティーグループの店舗が新宿にあったことを知る人は、今やアングラ民の中でも少数に属するのかもしれない。

2003年にオープンしたとされる「リアリティー横浜」(現在は「Pure 横浜」へ店名変更)であるが、当初より積極的にフランチャイズを展開し、同年には現在も営業中の「リアリティー厚木」、そして2004年には赤坂と新宿にFC店がオープンしているのである。

2013年には「リアリティー沖縄」(現在も営業中)などリアリティーグループは勢力を拡大するが、その後は同グループから独立して、新たなFCグループが出来るが、この話題は本旨から外れるので割愛させていただく。

最近、大阪のレッドドラゴングループが、急速に店を増やしていることが話題となっているが、本格的にFC展開に力を入れているのであれば、さほど驚くべきことではない。それは自らの資本力によって、直営でグループ店を増やすことと、看板とノウハウを提供することで店舗を増やすFC展開とは明確に区分して考える必要があるからだ。飲食店がFCによって、短期間に急増することを考えればお分かりいただけると思う。

つまり、もともと夜のお店に出資をしているような投資家や事業家であれば、相応の投資利回りを期待できそうなハプニングバーというのは魅力的な投資案件に過ぎないのである。このような人たちであれば、不動産屋やスタッフの調達を手当てするのは難しくないだろうから、あとブランディングとノウハウさえ取得できれば、事業展開はさほど難しくない。

言い換えれば、ノウハウをパッケージ化してビジネスできる程に、ハプニングバーは一般化したということである。
ハプニングバーは、もはや店主の人脈や力量だけで店を繁盛させるような業態ではない。そのようなスタンスに最後までこだわったのが、ピュアティワンの店主であったように思える。

ところで、ハプニングバーのFC化の起源はどこにあるのだろうか?
本章のテーマはFCのルーツを探り、FC展開の淵源を探ることにある。

ハプニングバーのフランチャイズのオリジネーターは、2002年に札幌にオープンした「鍵」であると考えられる。同年には「LOCK」という名前で六本木に進出している。資料が乏しいので詳細なリサーチは停滞しているが、「鍵」グループが撤退する2004年までの2年間で、盛岡、仙台、福島、名古屋、福岡にまで全国6店舗にまで急成長している。もっとも、ここに挙げた店のうち、急な撤退によりオープンに至らなかった店もあるようだ。

繰り返しになるが、ビジネスとして本格的にFCを展開するのであれば、短期間のチェーン展開は、さほど驚くべきことでもないのである。

ところで、東京にフォーカスしたうえで、フランチャイズの現在はどうなっているのだろうか。
実はフランチャイズによって多店舗を展開しているグループは存在しない。

公然の秘密として、グループであることを公にしないまま暖簾分けによって、店舗を増やしている店はあるが、それは上記のフランチャイズとは異なる。フランチャイズではないが、自分以外の店との関係性を明らかにしている事例は、新宿の「アグリーアブル」が、池袋の「ビーダッシュ」を姉妹店と公表している程度である。

東京でFCが一般化しない原因は、地方と比べてノウハウの調達コストが低いということが原因にあると考えられる。わざわざFC料を支払って、お店を開く理由がないということだ。

もっとも公然の秘密として、実質的にグループを形成している店もあり、ブランディングそれ自体の重要性は、東京においても損なわれていないと考えることもできる。

本章の結論としては、ハプニングバー黎明期の2004年には、リアリティーグループがFC展開により、新宿と赤坂に進出している。しかし撤退後は、東京で目立ったFC展開はない。一方で実質的なグループ店は存在し、高い集客力を維持していることから、ブランディングの意義は、ユーザーに広く意識されていることが指摘できる。

第6章 藍の森——アンダーグラウンドの古層

MAPにも掲載されているが、藍の森のスタッフだったぎゃん氏が急逝された。藍の森やカラーズで働いた後は、自身のバーを開いて、根強いファンもいただけに急な旅立ちを惜しむ声は大きかった。界隈から愛される貴重な人を、わたしたちは失ったのだ。

そうであっても、先人が培ってきたアンダーグラウンドの文化は失われないし、私たちもその記憶を受け継いで、記録に残す必要がある。本らコムの執筆の動機も、貴重な文化をテキストとして残すことにある。

ところで残っていくのは記憶や文字だけではない。アンダーグラウンドの建造物も経年により劣化しつつも在り続けるのだ。店が替わり、オーナーが替わっても、建物は存在し続ける。新宿の歌舞伎町を歩けば、そのような「アンダーグラウンドの古層」を私たちは目の当たりにせざるを得ないのだ。

そのような古層として興味深いのが、ぎゃん氏の働いていた「藍の森」である。

2002年12月に当初はカップル喫茶としてオープンした「藍の森」は、ハプニングバーへの業態変更、「愛の森」への店名変更、オーナーチェンジなどの紆余曲折を経て、現在もアンダーグラウンドのお店が営業している。

同じ2002年には、Cross Season(現在は「Cross Season II」)がオープンしていることから、同業態で同じ建物で営業している店としては、「Cross Season」が最長ということになるが、同じ年の12月にオープンし、アンダーグラウンドへの転生を延々と続けてきた「藍の森」にも不思議なストーリーを想像させるのである。

どうやらアンダーグラウンドというのは儚さだけではなく、形を変えながらも延々と続く奇妙な縁によって続いているようだ。ぎゃん氏や、ぎゃん氏の働いていたお店の建物に色々と考えを巡らせると、私にはそう思えてならないのである。

そのような縁を支えるのは、「愛」に他ならないとぎゃん氏は伝え、旅立っていったのではないか。
「藍の森」に端を発する物語は、アンダーグラウンドへの愛のヒストリーであったのだ。

第7章 美女と野獣——わいわい系のルーツを辿って

「到底納得できない」

アンダーグラウンド史の名言を生み出した人物が店主をつとめるバーが、新宿5丁目にはある。

店の名前は「美女と野獣」
アンダーグラウンドのレジェンドやビギナーの集う界隈の名店である。

本章では「美女と野獣」という名前のお店を巡る数奇な歴史を探ることが目的である。

「美女と野獣」を巡る物語は、わいわい系の歴史そのものであると言っていいだろう。

「美女と野獣」は2004年に新宿の歌舞伎町にオープンしているが、実はそれよりも前の2002年に六本木でお店が始まっている。同ビルの一つ上のフロアには、同じグループであると推測される、カップル喫茶「カルチャー」も営業している。ときおり「カルチャー」と一体になって営業しながら、2004年には「美女と野獣」は新宿歌舞伎町へ進出、跡地では「カルチャー」がハプニングバーとして営業を続けるが、同店はまもなく御苑を経て、四ツ谷へ移転している。

大箱の元祖は「グランブルー」であったと考えられるが、歌舞伎町に移転した「美女と野獣」は、元祖わいわい系の大箱であり、アンダーグラウンドのイノベーターであったのだ。現在の「美女と野獣」の店主は、この時代の「美女と野獣」を任され、わいわい系というカテゴリを確立した界隈の革命家である。

現状に対する「納得がいかない」という憤りが、新しい時代を作っていったのである。

「公然の秘密」として知られている事実ではあったが、すでに同グループの店舗がすべて撤退したので以下の事を明らかにしたい。

「美女と野獣」は実質的なグループを形成していたと考えられているのだ。「カルチャー」と「美女と野獣」は同グループであるし、2009年に「美女と野獣」がクローズした翌年、同じ新宿にオープンした「九二五九」(2023年クローズ)も同じグループである。

わいわい系の代名詞として知られる、渋谷「眠れる森の美女」(2006年~2022年)や、その後継店「ロシナンテ」(2002年~2023年)も同じである。実質的にグループであることを公表していないため、便宜上、これらの店を「わいわい系」と呼んでいたのだが、いつしかその意図は忘却され、同グループが消滅した現在は、同様のコンセプトのお店を「わいわい系」と呼ぶ習慣が定着しているのである。

「わいわい系」の生みの親は、今や「美女と野獣」という古名を用いたバーの店主となっている。アンダーグラウンドのレジェンドからビギナーまで集まることによって生み出されるカオスな空間はここにしかないだろう。比較的に新しいお店であるにもかかわらず、歴史の重みを感じさせる不思議な雰囲気なのだ。ビギナーにも入りやすいが、レジェンドにも満足させる店づくりは、店主の歩んできたアンダーグラウンドの道のりそのものであるように思える。

第8章 もぐら/カレー屋さんの二階へ行く

『ベイブ/都会へ行く』

これは前作(1995年)のヒットによって制作された子ブタを主人公とする映画の続編(1998年)である。

しかし一作目のヒットにより続編が制作され、都会へ行くのは、何もブタだけではない。
今やもぐらだって人気者になれば、都会へ進出するのである。

2020年に錦糸町で産声を上げたもぐらは急成長を遂げ、2022年には移転により店舗面積を大幅に拡大。2024年にはアンダーグラウンドのメッカである新宿へ進出を果たした。

『もぐら/都会へ行く』

しかしもぐらの向かった先は、歌舞伎町にあるホストビルの空きフロアではない。
トッピングメニューが豊富で辛さを自分好みに調整できる、有名なカレー屋さんの二階であったのだ。

続編のタイトルはこう改めてもいいのかもしれない。

『もぐら/カレー屋さんの二階へ行く』

カレー屋さんの二階は、「藍の森」が入居していたビルと同様、アンダーグラウンドの歴史を今に伝える重要な建築物である。

同ビルの歴史を辿ってみると、「美女と野獣」がクローズした翌年の2010年に「九二五九」が営業開始。同店クローズ後の2024年に「ノンハプバーもぐら」が新宿店をオープンしていたのである。「九二五九」の前には何があったのだろうか。実は2004年から2009年にかけて、逆ナンパ喫茶「ドリーム」が営業していたのである。

逆ナンパ喫茶とは何だろうか。社会学者の宮台真司氏は、実に興味深い体験を語っている。

90年代まではノンケの界隈にもハッテン場の施設が東京にありました。僕が通っていた新宿の店では20くらいの個室ブースがあって、男も女もカップルも待機できました。掲示板に自分のポラを張って自己紹介を書き込めました。「この3番の女が良いな」とか「このカップルが良いかな」と選んで、個室をノックして入り、後はなんでもアリでした。

千葉雅也×宮台真司が語る、性愛と偶然性 「そこで経験する否定性を織り込んで生きていく」

宮台氏のコメントは逆ナンパ喫茶での出来事を示すものであるとは言い切れないものの、1990年代のアンダーグラウンドが偶発性と性愛に彩られていたことを示すには十分である。

逆ナンパ喫茶の「ドリーム」も宮台氏が語るような空間であったことは想像に難くないだろう。

ここで「ドリーム」の変遷を辿ってみよう。同店は1995年に浅草にオープン、2001年には新宿に移転し、2004年にはカレー屋さんの二階に再移転し、2009年まで営業していた。池袋などにカップル喫茶がオープンし始めるのが、1990年代半ばであると考えらえることから、カップル喫茶は同時期に発生したアンダーグラウンドの形態であったと推測できる。

同業態としては、2000年半ばころに、「AQUA CLUB」というグループが東京を中心に8店舗ほど営業していたことが確認されているほか、同時期に「きのこはうす」というお店も大久保と御徒町に存在していたようである。

ここで話を戻すと、興味深い事実は、カレー屋さんの二階には、2004年よりアンダーグラウンド空間が存在しており、現在は「ノンハプバーもぐら」が営業を続けているということである。

アンダーグラウンドは形を変えながらも生き続けており、私たちはカレー屋さんの二階にアンダーグラウンドの古層を見出すことができるのである。

第9章 伝導師とリトリート——アンダーグラウンドの二卵性双生児

この店の話題は避けて通れないだろう。
「リトリート」である。

同店が界隈最大級の集客力を誇るハプニングバーであることは、衆目の一致するところだろう。

それにもかかわらず、コラムで取り上げることがないのは、同店がSNSを使ってプロモーションをしていないからである。
ネットで取り上げることは適応ではないと考え、コラムで話題にすることは自重していたのだ。

しかし「新宿ハプニングバーMAP」の解説を執筆するにあたっては、同店を取り上げないことはむしろ不自然であり、余計な誤解を生む弊害の方が大きいと考え、一つの章を使って、同店について、可能なかぎり詳述することとした。

「リトリート」は2009年にオープン。老舗ではあるものの、2000年頃オープンのハプバー第1世代「グランブルー」、「ピュアティ」、そして、2002年オープンの元祖わいわい系「美女と野獣」に比べれば、後発でのスタートである。

このことは同店の成り立ちを考えるうえで、極めて大きなファクターである。他店との差別化を考えなければならなかったからである。
このことにより、既存店とは正反対のコンセプトを持つお店が誕生したのである。

いかにもアンダーグラウンドというような雰囲気ではなく、一見してラウンジのような快適な空間を提供したのである。
私が聞いたところによれば、「このような場所で何が起こるのだろうか?」とオープン当初は困惑した人も多かったようだ。

既存店のコンセプトを考えれば無理もないだろう。そして、そのような懸念を抱かせる重大な要因がもう一つある。

それは同ビルの別フロアには、「伝導師」という伝説的なアンダーグラウンドのお店が存在していたからである。
ときに「狂乱」と呼ぶにふさわしい出来事が起こっていた異次元の空間であったことは、当時を知る多くの人が語るところだ。

「伝導師」を知る人にとって、ある意味で「リトリート」はもっとも遠いところに存在していたと考えられる。
「伝導師」と「リトリート」、アンダーグラウンドにおけるそれぞれの極地が、歌舞伎町の雑居ビルには同居していたのである。

第10章 グレイホールはすべての始まり――変態の梁山泊

「変態による、変態のための、変態のバー」

この店を紹介するには、エイブラハム・リンカーンによる、かの有名な「ゲティスバーグ演説」を借用すれば十分かもしれない。

ピュアティワンやグラウンド・ブルーのような第1世代のハプバー誕生以前に存在したアンダーグラウンド・スポットが、この「グレイホール」である。業態は普通のバーであるが、変態が集まって談笑したり、情報交換をするためのサロンであったようだ。この店の常連たちが、自分でお店を持つようになり、ハプバー第1世代のお店が誕生していったのである。

当然のことながら、Web上にも史料が残されていないため、聞き取り調査による推測に過ぎないが、現時点では分かっていることは、90年代後半から2000年にかけてお店が存在していたということと。当初、お店は青山にあったが、その後は新橋に移転したということだけである。

さらに興味深いのは、常連客にお店の看板を譲っていたということである。アングラ界隈のレガリア(聖遺物)と呼ぶべき、この看板を引き継いだのは、惜しまれながらクローズした錦糸町「ロタティオン」だったのである。

グレイホールから30年以上の時が経過し、看板を受けついだロタティオンがクローズしたことで、アングラの歴史は終焉し、新たな歴史が始まったと、私は考えているのである。

第11章 スカーレット東京——受け継がれるアンダーグラウンド建築

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」

こう書き記せば、谷崎潤一郎の『雪国』を思い浮かべる人が多いことだろう。

続けて、谷崎の『雪国』に倣ってこう記せば、アングラ界隈の住民のほとんどは、「スカーレット東京」を想像するに違いない。

「歌舞伎町の雑居ビルの螺旋階段を降りると異界であった。」

2023年にオープンしたスカーレット東京は、新しいお店であるにもかかわらず、アンダーグラウンド界隈においてはもはや、文学的・詩的表現が似合うシンボリックな存在となっている。

充実した店内整備に、「歌舞伎町」としか形容しようがない煌びやか内装——
「原点回帰」を謳う同店は、新しくありながらも、どこか老舗のような歴史の重み感じさせる不思議な魅力を持ち合わせている。

それは入居しているビルの——例えば、あの螺旋階段に象徴されるような——構造的特性というべきものが、スカーレット東京のアンダーグラウンド特有の雰囲気に大きく寄与していることは、あらためて指摘するまでもないだろう。

私がここにおいて主張したいのは、アンダーグラウンドの「地霊」と呼ぶべものが、このビルには宿っているということである。実際、アンダーグラウンド建築と呼ぶべき歌舞伎町のビルは、「シルク」、「ブリスアウト」、「スカーレット東京」と受け継がれてきた。

グレイホールより続くアンダーグラウンドの系譜を汲む、最後のお店が、この「スカーレット東京」であるといっても過言ではないのである。

終章 謝辞

まだまだ書くべきことや紹介すべきお店はたくさんある。これまで綴ってきた文章を振り返って、あれこれ思いに耽るような気分には、到底なれないというのが、包み隠さない本音である。

しかし3部営業の店であっても、次の日の営業に備えて、かならず閉店時間は訪れる。私も界隈の流儀に倣って、ここではいったん文章を締めくくることとしよう。

このコラムは、初代えびまい氏が「新宿ハプニングバーMAP」を作成したことを機縁に執筆されたものである。えびまい氏にはあらためて感謝を申し上げたい。
また「新宿ハプニングバーMAP」と同じタイミングで、ほとんどコラムは書きあがっていたものの、私が忙しさにかまけていたことにより、発表が遅くなってしまい大変申し訳なく感じている。これは週末ともなれば、コラムの執筆をなかば放棄して、アンダーグラウンドで遊んでいたことが原因である。このような事情を斟酌して、お許しいただきたい次第である。

ピュアティワンのマスターにも大変お世話になった。マスターへの取材が実現していなければ、初期のアンダーグラウンドについて執筆することは不可能であった。深夜まで貴重なお話を聞かせていただいたことには感謝の言葉しかない。そして、間に立ち入ってマスターを紹介していただいた方にも、この場を借りてお礼を申し上げたい。あらためて、お二人にはご挨拶に伺えればと思っている。

ここでは紹介できなかった様々な方の協力もあり、コラムを始めて以来の集大成ともいえる内容になったと自負している。しかし、グレイホールの営業期間や所在地など、いまだに明らかではない点は多い。DMなどで情報を提供いただければ有難い。

最後になるが、このコラムの執筆を通じて強く感じたことは、「アンダーグラウンドの失われゆく記憶を記録として残す」という使命感である。

時代の流れによって、文化や都市は姿を変えていく。そのような移ろいのなかに、アンダーグラウンドも存在する。
そうであればこそ、アンダーグラウンドも時代に寄り添う存在であっていい。固執すべき本質は過去そのものではないからだ。

しかし、アンダーグラウンドがアンダーグラウンドとして存在することの意義が、失われてしまうようなことがあってはならないと切に思う。

自由を愛する一人の人間として、アンダーグラウンドが、この先も在り続けることを願って止まない。

【了】

Tags

-コラム
-,