ノンハプバーもぐらは、資本の論理を超える
7月7日の東京都知事選にあわせて、ノンハプバーもぐらが投票で入場料を無料にすることを発表した。
選挙権のない東京都民以外は恩恵にあずかれない他、店のコンセプトとの関係性から、当該キャンペーンの実施については、賛否両論であったことが想像される。
たしかにノンハプバーもぐらと都知事選にどのような繋がりがあるのか、疑問に思う人もいるのかもしれない。
端的にいえば、毎夜のごとく繰り広げられるエロのバカ騒ぎと、日本の政治に何の関係があるのか?ということだ。
しかし、投票で入場料を無料にするという採算を度外視したキャンペーンは、当初よりノンハプバーもぐらについて考察してきた人間からすれば、ノンハプバーもぐらのコンセプトを体現したものであると断言できるのである。
なぜだろうか。その理由について本稿では解説していきたい。
以前よりコラムで記しているように、ノンハプバーもぐらは、ビジネスを超えた運動体である。
ノンハプバーもぐらとは、既存のハプバーを脱構築し、アンダーグランドにオルタナティブなコミュニティを立ち上げるための運動体である。周年ウィークを設けて、その期間の平日2000円、週末3000円という利益を度外視した入場料にしたことはもちろんのこと、周年イベントに元スタッフが多数集結するような絆の強さは、ノンハプバーもぐらが単なるビジネスではないという証拠であろう。
【祝4周年】ノンハプバーもぐら論
ノンハプバーもぐら新宿店がオープンした経緯は、錦糸町店での周年イベントにおいて、急遽クローズした店舗の賃貸物件が空いていることを関係者より聴いたオーナーが、その場で新宿への進出を決断し、その1ヵ月後にはお店をオープンするという、にわかには信じがたいものであったのだ。
新宿というよりは新大久保に近い立地で、錦糸町より広い店舗面積と高額な家賃、そしてノンハプバーもぐら錦糸町に準ずる価格設定という条件下でのビジネスは厳しいと誰もが想像したはずである。しかしそれが杞憂に過ぎなかったことは、ノンハプバーもぐらの盛況を見れば、誰にも明らかである。
ノンハプバーもぐらは、このような店をオープンした経緯を考えても、そもそも地上の理屈で成り立っていない。
そのような理屈を超えたエネルギーが集客に繋がっているのではないだろうか。
ノンハプバーもぐらには、資本の論理を超えた強靭さがある。私にはそう思える。
それは急な事態で職を失った人たち、長いあいだ界隈の仕事に携わり、更なるチャンスを待ち望んいる人たち、そしてノンハプバーもぐらの理念に賛同してくれるお客さんのために、ノンハプバーもぐらは存在するからだ。
ところで、いまや社会は、SNSとAIで覆いつくされようとしている。Xはそのような現代社会の有様を象徴的に示している。その背後にあるものは、株主の利益を優先した資本の論理であるように思う。マネーの論理がすべてに優先するのである。実際にパーソナルな性的嗜好さえも、「性癖」として記号化され、プラットフォーム上で交換可能な商品になっている。資本を優先した社会では、性にまつわる個人の好みですらマネタイズされてしまうのである。
ノンハプバーもぐらは、そのような社会に抗う。
プロモーションでXを使わざる得るをないという自己矛盾を抱えながらも、「資本の論理」に反発しているのである。
そのことはノンハプバー新宿店がオープンした経緯を振り返れば、十分に理解であるはずだ。
社会を動かすには理屈を超越したエネルギーが必要である。それは「性」を突き動かす原動力と同じように、人間にもともと宿されている根源的な力であるように思う。
私たちの社会は、普通選挙の代議制によって成り立っている。選挙の結果によって、私たちの暮らす社会が決まっているのである。しかし、その社会をより良い姿へと変革していくには、理屈を超えた途方もないエネルギーが必要である。それは新たな生命を生み出す、「性」と同じような根源的な力なのかもしれない。ノンハプバーもぐらでは、「性」を中心にすえることで自身を開放し、誰にでも幸せが開かれたコミュニティを実現する。リーガルを厳しくクリアーしたうえでの、夜ごとのエロバカ騒ぎはそのためにある。
「性」から「政」へ、「政」から「性」へ
「政」と書いて「まつりごと」と読むのは、古代の社会では、政治と祝祭が同じものであったことを示す痕跡である。そのような政治システムを「政祭一致」と呼ぶ。社会の方向性を決めるには人知を超えた力が必要になるので、文字やテクノロジーの発達していない社会では、占いや祈りによって、コミュニティの将来を大きく左右する重大なことを決めていたのだ。それは祝祭のように厳かでありながらも熱気に包まれていたようにも想像される。そして多くの民俗学の結果が示すとおり、——例えば盆踊りの夜這い――、祭りは性的な交わりと密接な関係があった。祭りは、偶発性に名を借りた性の交わり(それをハプニングと呼ぶ)による、現実に存在する非日常的な享楽の空間である。祭りは性を通じて、人間の意識を変性させる。それは祭りを司る者の変性意識を通じ、祈りや占いによって、私たちが生きる社会の行く末を決めていたことと表裏一体の関係にある。
コミュニティの将来の存亡を左右するような重大な事柄を、人間は変性意識の中でしか決めることが出来ない。人間は万能ではないからだ。
改めて言おう。政治とは祝祭である。祝祭のような熱狂をもって、社会が変わっていくのは今も同じだ。それはいうまでもなく、選挙という代議制のシステムを通じてのことである。
「性」を通じて祭りに参加せよ――
というノンハプバーもぐらのメッセージは、「政」を通じて社会への参加を促すこととと同義である。
都知事選への投票によって、入場料を無料にするキャンペーンは、その証左だ。
「性」と「政」を、ノンハプバーもぐらは自由自在に行き来きする。
「性」と「政」が交わるところに、ノンハプバーもぐらは存在する。
ノンハプバーもぐらのそのような力は、日々AIやSNSに侵食され、性的な好みすらマネタイズされようとしている私たちの社会に、大きな活力を与えるものであると、私は強く信じる。
最近、界隈関係者の訃報に接した。
あまりにも早い旅立ちを惜しむ声が、数多くの人々から寄せられている。故人が界隈から深く愛されてきた証拠であり、私たちのコミュニティの大きな力を示すものでもある。
それは、私たちの社会をより良いものにして、未来へ受けついでいこうとする願いと同じ力であるように思う。
東京都知事選が行われる、本日7月7日は、そのような私たちの力が試される日になる。
ノンハプバーもぐらは、社会を変える――
「性」と「政」に真剣に向かい合うことによって――
もちろん、お祭りのようなエロバカ騒ぎで――
【了】