追記(2022/11/06)
今更ながら、コラムのタイトルを「歌舞伎町の合法ハプニング」から「新宿5丁目の合法ハプニング」へと変更させていただいた。
お店の所在地が歌舞伎町ではなく新宿5丁目であり、予想以上にコラムのPVが高い状況下では、無用な混乱を招く可能性を無視できなくなったからだ。
関係者の方々には、この場を借りてお詫びを申し上げたい。
訂正に至った経緯について言明させていただければ、コラム公開直後、店の所在地が歌舞伎町ではなく新宿5丁目であることには気づいていた。それにもかかわらず、直ちに訂正しなかったのは、私の怠惰だけが原因ではない。
以前のお店は歌舞伎町に所在していたし、新宿5丁目と表記しない方がインパクトもあると考えたから、アングラをシンボリックに示す言葉として、戦略的に「歌舞伎町」と表記したのである。
しかし、お店が歌舞伎町ではなく新宿5丁目に所在することに、美女と野獣の本質的な価値があると思い至り、タイトルを変更するとともに、そのことについて補足することとした。
新宿5丁目にあることの意義は?
それが今回の補遺で論じるべきテーマである。
ここ1年程度でハプニングバー関係者が携わるバーを「界隈バー」と称する傾向が生まれたが、そのような風潮はすでに消え去ろうとしているのではないだろうか。オープン当初こそハプニングバーの客を集客に期待するところはあったのかもしれないが、お客さんが入れ替わるなかで、近隣のバーとの交流などを通じて、もはやハプニングバーの色彩は薄くなっているからだ。
端的に言えば、SNSでの集客に力を入れているという点を除けば、界隈バーと呼ばれていたほとんどお店は、歌舞伎町に存在する普通のバーになっているというのが私なりの見解である。
そこで繰り広げられる風景は、スタッフの歌舞伎町近隣のお店を「営業」で回り、お客さんもいろいろなお店をハシゴして飲むという、良くも悪くも歌舞伎町のスタイルだ。概念的にいえば、いくつかのお店の集合体が、ヴァーチャルに一つのお店を構成しているとも言えるだろうし、それが歌舞伎町の文化なのかもしれない。
だから、歌舞伎町の徘徊すれば、どこかで見覚えのある顔に遭遇することになる。
もちろん、そのことの是非について論じることはコラムのテーマではない。
しかし、美女と野獣はそれらのお店とは違う。
独立した店、自立したコミュニティであり続けるように私は思う。
なぜだろうか。答えはシンプルだ。
歌舞伎町ではなく新宿5丁目に出店したからである。
「新宿区歌舞伎町」と「新宿区新宿」は隣接しており、歩けない距離ではない。
そうかといって、歌舞伎町と新宿5丁目の関係者が常に顔を合わせるような近さでもない。
むしろ、美女と野獣のある新宿5丁目は、ホストなどの水商売の色が近い歌舞伎町よりも、フェティッシュやLGBTに開かれた新宿2丁目に近い。お店のコンセプトを考えれば、歌舞伎町よりも新宿5丁目の方が親和性が高いことは指摘するまでもないだろう。
だから、美女と野獣は歌舞伎町の喧騒を離れて新宿5丁目にある——
新宿5丁目でハプニングが起こる
新宿5丁目でコミュニティが興る
見知らぬ人々が接することでハプニングが発生し、新たなコミュニティが生まれる。
そのような当たり前のことを、美女と野獣は教えてくれたようであった。
歌舞伎町の野獣、道玄坂の美女
歌舞伎町に、ふたたび野獣の雄叫びが響き渡る――
11月1日、長い眠りから野獣が目を覚ます。
道玄坂の美女が眠りについたのと、入れ替わるかのように――
先頃、眠れる森の美女の元店長が、歌舞伎町に「美女と野獣」という名のバーをオープンすることを発表した。
美女と野獣は、六本木と歌舞伎町で営業していたハプニングバーの名前だ。
しかし、この物語は野獣が人間の姿に戻り、美女と幸せな生活を送ることで、ハッピーエンドを迎えていたはずである。
永い時を経て「美女と野獣」の物語はなぜ再生するのか?
本稿の目的は、店長がTwitterに残した「合法ハプニング」という言葉を手がかりの糸に、新しい物語としての「美女と野獣」の正統性を論証するとともに、その疑問を解決することにある。
この問題に対応するために、本稿では「美女と野獣」の物語を、ハプニングバー時代は旧説として、合法ハプニングバー時代を新説として捉える。
その上で、旧説の歴史的な変遷をコンスタティブ(事実確認的)に、新説が示す合法ハプニングをパフォーマティブ(行為遂行的)に言及することで、道玄坂で美女が眠りにつく間、歌舞伎町で野獣が復活した理由について究明する。

旧説「美女と野獣」
本節では、ハプニングバー時代の美女と野獣の変遷について、これまでコラム「ハプニングバー全史」として公表してきた調査結果をもとに詳述する。
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スペース「ハプニング全史」の配信と「全店舗リスト」の公開について

美女と野獣は2002年に六本木でオープンする。
ルグランブルーが新宿で初のハプニングバーがオープンしたのが2000年であることを考えると、2002年に六本木でオープンした美女と野獣は古参に分類される。
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【ハプバー考古学#03】Le Grand Bleu 〜深く潜る
美女と野獣、眠れる森の美女の店長を務めていた一鬼のこ氏のインタビュー記事によれば、当時は都内に3店舗ほどしかなかったという。
そして、興味深いのは同じビルにカルチャーという系列のカップル喫茶が営業していたことだろう。
以下の調査で明らかになったが、2004年にハプニングバーが初めて摘発されるまでは、ハプニングバーより前に存在していたカップル喫茶の人気も高く、店舗数も多かったのである。
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【ハプニング全史】カップル喫茶の受難史
そのような当時の状況を背景に、ハプニングバーとカップル喫茶が同じビルで営業していたと考えられる。
実際にルグランブルーも同じビルで系列店としてカップル喫茶を営業していた。
しかし、2004年までに美女と野獣はクローズし、ハプニングバーとしてカルチャーがオープンする。
カップル喫茶のカルチャーと、ハプニングバーのカルチャーが同時に営業していたということである。
その後、カップル喫茶のカルチャーは2004年に、御苑での一時的な営業を経て、同年に四谷(四谷ガーデンというハプニングバーが営業していた場所)に本格的に移転する。2004年以降はカップル喫茶はハプニングバーに押されて減少するが、2009年まで営業は続いた。
カップル喫茶のカルチャーが六本木を離れたタイミングで、ハプニングバーのカルチャーはクローズするが、それよりも前に歌舞伎町で美女と野獣がオープンする。(一部、日時が不明であるため、情報の提供を募集中)
インタビューによれば、ハプニングバーとしては、初の大規模店舗であったようだ。
50坪くらいありましたね。それだけの規模の大型ハプニングバーは初めてだったんじゃないかな。
http://sniper.jp/008sniper/00831fetishist/post_958.html
そして、ワイワイ系と言われる、今のハプニングバーの原型でもあったのである。
一般のお客さんはエロだけだとすぐに飽きちゃうんですよ。そこで笑いの要素があれば、飽きずに来てくれるし、そのうちに仲間が出来てくる。[…]お客さん同士で仲良くさせたり、みんなで旅行に行ったりとか、とにかく温かいお店にしたんです。
http://sniper.jp/008sniper/00831fetishist/post_958.html
そのコンセプトは、2006年にオープンした、眠れる森の美女にも受け継がれたことは言うまでもない。

2000年オープンしたルグランブルーが初のハプニングバーであることは間違いないが、われわれがイメージするハプニングバーに近いのは、美女と野獣であると考えてよいだろう。
その限りにおいて、原点にして原初というのは、正鵠を射た表現である。
今も界隈で遊ぶ多くの人にとって、ハプニングバーを改めて考えるときに立ち返るべき最初の店は、美女と野獣であるからだ。
げん‐てん【原点】
(1)長さなどを測るときの基準となる点。また、物事を改めて考えたり、行動したりするときなどに立ち帰るべきもとになるところ。
日本国語大辞典
げん‐しょ【原初】
物事のいちばんはじめ。発生の最初。がんしょ。
日本国語大辞典
ここまでの出来事を時系列で示すと、
- 2002年、美女と野獣(六本木)オープン
- 2004年、美女と野獣(新宿)移転オープン
- 2006年、眠れる森の美女(渋谷)オープン
であり、歌舞伎町の野獣と道玄坂の美女の物語は、そのまま続くものと思われた。
しかし、物語は突如として終焉する。
2009年に歌舞伎町の美女と野獣がクローズしたからだ。
歌舞伎町における美女と野獣を巡る真実の物語はこうだ。
野獣は人の姿に戻って美女と結ばれたのではない。
獣と人が共存することは認められず、さらには、人が生き物として持つ本能を露にした獣には法が及ばないとして、獣は人の姿に無理やり戻され、美女とも引き離されたのである。
ジャック・デリダ1フランスの哲学者。アルジェに生まれ,エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)に学び,現在同校の哲学担当教授。現前ないし現在を中心にした時間と存在の理解にたいするハイデッガーの批判を継承しながら,音声中心的ロゴス中心的な形而上学の支配を,フッサールの現象概念やソシュールの記号概念の中にも見とどけ,その克服を,差異化の作用一般にまで拡張された〈エクリチュールécriture〉の概念をてこにしてはかり,思考に新たな次元をひらく試みを重ねている。(世界大百科事典)が指摘するように、主権者は人と獣を分け隔て、人間が本来持つ獣性を隠ぺいしつつ、時には、獣のように暴力的に権力を行使するのだ。
地下であっても、獣と人の共生が明るみに出て、世間の注目を浴びるようなことがあってはならないのである。
そのことが美女と野獣の物語が終わりを迎えた理由であるように、私には思える。


馬に姿を変えられた美女
前節でわれわれは美女と野獣を巡る真実の物語をたどった。
本節では、13年の時を経て、合法ハプニングバーとして歌舞伎町にオープンする新説「美女と野獣」の物語の正統性を検討していきたい。
まずは前節の課題して、この疑問について考える必要があるだろう。
つまり、眠れる森の美女についても、真実の物語が明らかにされる必要がある。
- 2006年に渋谷で始まった眠れる森の美女の物語は、なぜ2022年に終焉を迎えたのだろうか。
- そして、道玄坂の美女はどうなったのか。
野獣は美女を独り占めにしてはいけないと考え、2006年に渋谷に眠れる森の美女がオープンし、2022年まで営業する。
その思いは、以下のセリフに集約されているだろう。
彼女を行かせた、愛しているから
野獣(『美女と野獣』より)
しかし、2022年に道玄坂の美女はふたたび眠りについたのではなく、実はロシナンテという名前の馬に姿を変えられていたのである。
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【新しい冒険】渋谷SB、ロシナンテとして復活
ポリティカル・コレクトネス2ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された政策または対策などを表す言葉の総称であり、人種、信条、性別などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。(Wikipedia)の論理が優先する世の中にあって、ルッキズム3ルッキズム(英: lookism)とは外見に基づく差別または偏見。主に人間が視覚により、外見でその価値をつけることである。「look(外見、容姿)+ism(主義)」であり外見至上主義[7][2]、「外見を重視する価値観」との意味でも使われる。「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある。(WIkipedia)批判に晒されたのが理由であるように思う。
それは、地下であっても美女が自分の秘めたる本能や欲求を開放することは許されない世の中になったということだ。
歌舞伎町では野獣が、道玄坂では美女が、社会からその存在を否定されたのである。
それはハプニングの否定に他ならない。
GoogleやFacebookなどのプラットフォームが世界を覆い尽くし、偶然性から必然性に価値を置くように、人々の感性が変容したからだ。
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【ハプニングから遠く離れて】ゴダール、リヒター、そして千葉雅也、宮台真司
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【エッセイ】小沢健二の食パンと、ハプニングの起源論
われわれの世界ではIT技術の向上により、計算可能性領域が拡張した結果、偶然性がもたらす享受に身を委ねる感受性を失ってしまったばかりか、それをリスクとして捉えるようになってしまったのである。
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【はじまりの記憶】ハプニングの起源について
そのような時代の流れに抵抗するために、そして馬に姿を変えられた美女を元に戻すために、人として平穏な生活を過ごしていたひとりの男が野獣に身を変え、歌舞伎町に合法ハプニングバーをオープンする。それが11月1日にオープンする美女と野獣だ。
これが美女と野獣の真実の物語である。
新説「美女と野獣」は旧説に続く正統な物語だ。
合法ハプニングとはなにか
前節では、美女と野獣の真実の物語とともに、新しい物語としての新説「美女と野獣」の正統性を論証した。
続く本節では、「合法ハプニング」について論考を試みる。
合法ハプニングのヒントはツイートにあった。
9月23日には、店名こそ明らかにされていないものの、新宿でバーをオープンすることを発表し、「脱衣、パコ禁止」として、コンプライアンスに準拠したプレイベントを行っていたのである。
合法ハプニングが意味するところは、おでんくんも注目しているようだ。
どう合法なのか気になりますね
— おでんくん🍢@松屋 (@Odenkun_lu4e) October 14, 2022
おでんくんは、5月8日の悲劇を間一髪逃れた奇跡の象徴である。
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【ハプバー摘発の歴史】おでんくん、SB摘発を間一髪で逃れる
最近ではTwitterスペースでのストリートナンパが話題にもなっているのである。
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【界隈無双】おでんくんのモテ理論
人気に乗じた偽おでんくんの出現にも警戒しなくてはならない事態になっているのだ。
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【ハプバーの幽霊】偽おでんくん、偽ハップマンに気をつけろ!
近況に触れておくと、現在のおでんくんは神の試練を受けている。
投票によって決まったハプニングバーに来店したり
同じく投票によって、来店時の行動を制限したりしているからである。
今後はおでんくんTシャツを着た、おでんくん女子の増殖も予想される。


ここで美女と野獣に話を戻そう。
果たして合法ハプニングとは何か?
「脱衣、パコ禁止」だけであれば、それは普通のバーとの違いはないだろう。
それにもかかわらず、あえて合法ハプニングという言葉を使ったのはなぜだろうか。
ハプニングそれ自体を違法と見做すようになった社会に対するアンチテーゼとして、合法ハプニングという言葉を用いたのではないだろうか。
ところで、美女と野獣の店長はSNSから距離を置いているように私には思える。
影響を受けたであろう弟子のパピヨン店長のツイートをみれば、そのことは明らかだ。
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【愛妻家】パピヨン阿部店長はハプバーの未来を見据える
パピヨン店長はTwitterへの嫌悪感を露骨に示す。
美女と野獣の店長の感情も同様であろう。
それはTwitterを代表するようなプラットフォームによって、偶然性が否定され、確実性が重視される社会へと移行するなかで、地下で人知れず営業を続けてきたハプニングバーが存続の危機にさらされているからだ。
承認欲求
俺っぇて〜スゲー
って思いたい!!!
— 相葉たつや@【本日】10/16上野パピヨン昼ドラ10~19 (@ts92hapbar1) October 15, 2022
相葉たつや氏が応答するように、SNSは承認欲求に満ち溢れており、それはハプニングバーにも侵食しつつある。
私にはとある継承者が打ち鳴らす鐘の音が思い出される。
耳元で騒々しく鳴り響くあの金属音が――
承認欲求を求めて、偶然から必然に、義理人情ではなく損得勘定へと感情が劣化した界隈に対して、継承者は警鐘を鳴らすのである。
偶然よりも必然を求めて、Twitterで待ち合わせして来店したり、来店後にTwitterで連絡する行為や、ハプニングバーを利用して人を集める行為に対し、継承者は怒りを表す。
継承者が継承しようとするものは、日常生活では実現することが難しい欲求を、「偶然の出来事」という体裁にして、地下空間で実現し、日の光を浴びた瞬間にすべて忘れ去ったことにするという、先人の知恵であるように思える。
Twitterなどのプラットフォームは、人々の承認欲求をマネタイズしており、界隈の住民も、自分自身の嗜好やジェンダーが商品化されていることに人々は無自覚であると、かつて祝祭の光を浴びて眩暈を起こした私は考える。
そして継承者のツイートが、美女と野獣のセリフと符合することは当然であろう。
見た目に騙されてはいけない。美しさは心の中にあるのだから。
魔女(『美女と野獣』より
ここまでくれば、われわれは最後の課題に取り掛かることができる。
美女と野獣はどのような店になるのだろうか?
もっとも、答えはすでに本人から提示されているに気づく。
合法ハプニングをテーマに、変態な人もそうじゃない人にとっても、居心地が良い場所にしたいと思っております
美女と野獣
資本家がビジネスのために承認欲求を操作する、Twitterのようなプラットフォームを切り離し、人々が密かに抱えている様々な嗜好やジェンダーを解放できる現実の空間を、美女と野獣は目指しているというのだ。
その空間ではあり得ない人とあり得ない出来事を偶然に共有することになるだろう。
ハプニングとして、合法的に——
当然、一部の人間が承認欲求や金銭を獲得するためにSNSで告知するイベントの類とは、別の次元に存在する。
そしてハプニングバー関係者による集客を期待しながらも、普通の飲み屋であるかのような体裁を都合よく装う「界隈バー」とも違う。
合法ではあるものの、正々堂々とハプニングバーを名乗っているからだ。
それは20日間にも及ぶ苦難を乗り越えて現場に復帰した、心ある人間を中心としたコミュニティであり、実社会で働いて稼いだお金で来店することよって支える現実の世界だ。
承認欲求や利害関係の渦の中で無限に繰り返される、リツイートや「いいね」とは無縁な空間がそこにはある。
11月1日「美女と野獣」の新しい物語がはじまる。
私たちの生きる現実の世界で——【了】
追記(2022/11/07)
この追記を書いている時点で当コラムは閲覧数が1位となる人気を博しており、それは店に対する反響の大きさと店長の人望を示しているようだ。
この反響に応えるべく、コラムの続編を執筆したので、ご覧いただければ幸いである。
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【美女と野獣】新宿5丁目の赤い部屋
【更新履歴】
2022/10/16公開
2022/11/06追記
2022/11/07追記