【美女と野獣】新宿5丁目の赤い部屋

2022-11-06

純白から真紅の世界へ

純白に覆われた階段を上る。地中海建築のような異国情緒や、『不思議の国のアリス』1イギリス19世紀の作家ルイス・キャロルの児童向けファンタジー。最初は同名の少女アリス・リデルのために語られたものが、1865年にテニエルの挿絵入りで出版されて評判をよび、いまでは世界数十か国語に訳され、親しまれている。(日本百科全書)のような幻想的な雰囲気がどこか漂う——

最後のらせん階段を駆け上がり、表札のないドアに恐る恐る手をかける。

次の瞬間、眼前に広がるのは、真紅の空間だ。

それはアンリ・マティスの絵画のようでもあり、道玄坂の眠り姫のお城にあった「赤い部屋」のようでもある。

お店がそのようなことを意識してレイアウトを設計したのかどうかは問題ではない。
はっきり言えるのは、私の目に焼き付いた心象風景は、白から赤へ変わるハプニングであったということだ。

オープンして1週間を経たないタイミングで、「美女と野獣」を再び取り上げるのは、そのような現実の体験を色あせない内に共有したいと考えたからだ。
(店にまつわるヒストリーは下記コラムも併せてをご覧いただきたい。)

【美女と野獣】新宿5丁目の合法ハプニング

アンリ・マティスの赤い部屋

前節で店を形容する表現として登場した「アンリ・マティスの絵画」は、『赤いハーモニー』というアンリ・マティス2フランスの画家。フォービスムの代表的画家として活躍。のち、色彩・フォルム・描線の単純化・装飾化によって独自の絵画空間を構築し、現代美術に多大の影響を与えた。マティス。(デジタル大辞泉)の1908年の作品である。別名で『赤い部屋』とも呼ばれる。

アンリ・マティスは心象風景として室内を原色で赤く映し出し、写実主義から遠く離れることに成功した。そして、その強烈な色彩感覚から「野獣派」と命名された一連の作品群のなかでも、代表作として知らせれているのが、前節で取り上げ、アイキャッチ画像に使用した、アンリ・マティスの『赤い部屋』である。

作品はロシアのエルミタージュ美術館3サンクト・ペテルブルグにあるロシア最大の国立美術館。現在のエルミタージュ(フランス語で隠れ家の意)は、エリザベータ女帝以来ロシア皇帝歴代の宮殿であった冬宮と、これに増築された小エルミタージュ、劇場、旧エルミタージュ(いずれも18世紀後半)、新エルミタージュ(1851)の五つの建物からなる。(日本百科全書)が所蔵しており、絵画の画像もルールにしたがって、同美術館ウェブサイトより、批評を目的として引用させていただいた。いつものように画像にトリミングやテキスト編集を施していないのはそのためである。

四方を赤い壁で囲まれたお店の空間は、アンリ・マティスの絵画のように野獣そのものであるかのようだ。
もっとも、赤い空間が思い起させるものはそれだけではない。

道玄坂の眠り姫が住んでいたお城にあった「赤い部屋」のことを、われわれは忘れてはいないからだ。

道玄坂の眠り姫は馬に姿を変えた。

【新しい冒険】渋谷SB、ロシナンテとして復活

現実は現実として受け止めなければならない。
しかし純白から真紅に変わるひとときの間は、そのような現実を忘れさせてくれるかのようである。

野獣はそのために新宿に戻ってきたのだ。

鉄血宰相ビスマルクの演説

昨今のアングラ界隈の状況は、国民国家4確定した領土をもち国民を主権者とする国家体制およびその概念。17世紀のイギリス市民革命、18世紀のフランス革命にみられるように、絶対王制に対する批判として君主に代わって国民が主権者の位置につくことにより形成された近代国家、あるいはその近代国家をモデルとして形成された国家を指す。(日本百科全書)が成立する過程の19世紀のヨーロッパにも似た混迷にあるように私には思える。


ウィーン体制5ナポレオン戦争の戦後処理を通じてつくり出された支配体制。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導したことから、欧米ではメッテルニヒ体制Metternich Systemとよぶ。ナポレオン戦争に勝利したヨーロッパの君主、貴族などの復古勢力は、フランス革命を端緒とする革命の大波の復活を抑え込み、ウィーン会議が生んだ国際秩序を維持するためにこの体制を必要としたが、そのために依拠したのが神聖同盟と四国同盟(のちに五国同盟)という2本の柱であった。(日本百科全書)以降の国家が国民国家という形態に移行したように、ハプニングバーも新たなフレームワークを模索する動きが活発化しているからだ。

「新しい時代には新しい生存戦略が要求される」と以下のコラムで記したとおりである。

【新基準】おもてなし時代の到来

このような状況にあって、私が想起するのは、当時ヨーロッパで国民国家の形成が立ち遅れていたドイツを統一に導いた鉄血宰相ビスマルク6ドイツの政治家。プロイセンのユンカーの出身。ゲッティンゲン,ベルリン大学に学び,プロイセンの官吏をへて,プロイセン連合州議会議員として政治活動に入る。1848年の三月革命期には極端な保守・反革命主義者として登場したが,その後,ドイツ連邦のプロイセン公使,ロシア大使,フランス大使などを歴任するなかで,プロイセン国家の拡大・強化のためにオーストリアとの対決とドイツ統一問題の利用について認識を深めた。62年プロイセン首相となり,いわゆる〈鉄血政策〉にもとづき普墺戦争(1866)に勝利するとともに,国内紛争(プロイセン憲法紛争)を収拾し,さらに71年,普仏戦争に勝利してドイツ統一を完成し,ドイツ帝国初代の宰相(1871-90)となった。(世界大百科事典)である。

ビスマルクは、ドイツの重武装化を主張するために、兵器(鉄)と兵隊(血)の重要性を、以下のように演説したことから、鉄血宰相と呼ばれている。徹底的なリアリストであるように私には思える。

「目下の大問題(ドイツ統一)は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決されるのであります。」

ビスマルクはこうも説く。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

しかし、これは、誤訳とまでは言わないまでも、多分に脚色された翻訳であるとして知られる。

愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。

というのが、本来の翻訳である。
歴史を踏まえないものは愚者であるという意味ではなく、他者を参照することの重要性を主張しているに過ぎない。
もっとも、当時のドイツの過酷な状況を考えれば、一般的に知られている前者の翻訳のように、愚者と賢者に区分するような、オブラートに包まない、あまりにも直截的な振る舞いや思考様式も必要であったのかもしれない。

しかし、美女と野獣はそのような現実世界の争いからは距離を置いているようだ。
歌舞伎町ではなく新宿5丁目に出店したのは、そのような背景があるようにも思える。

むしろ愚者を積極的に受け入れるような包摂性こそ感じるのである。
それはアングラ界隈における先人たちの知恵と言えるのではないだろうか。

美女と野獣が目指すものは、Twitterのごとき非現実の日常の延長や、現実世界の日常の虚飾ではなく、そのような世界の諍いを忘れさせてくれる現実世界の非日常だ。

愚者は愚者であっていい——
そのような中こそで、人々が内に秘める想いが野獣のように解放されるのである。

先人たちが築き上げてきたものが新宿5丁目の赤い部屋にはある。【了】

【更新履歴】
2022/11/06公開
2022/11/07脚注追記・誤記修正

  • 1
    イギリス19世紀の作家ルイス・キャロルの児童向けファンタジー。最初は同名の少女アリス・リデルのために語られたものが、1865年にテニエルの挿絵入りで出版されて評判をよび、いまでは世界数十か国語に訳され、親しまれている。(日本百科全書)
  • 2
    フランスの画家。フォービスムの代表的画家として活躍。のち、色彩・フォルム・描線の単純化・装飾化によって独自の絵画空間を構築し、現代美術に多大の影響を与えた。マティス。(デジタル大辞泉)
  • 3
    サンクト・ペテルブルグにあるロシア最大の国立美術館。現在のエルミタージュ(フランス語で隠れ家の意)は、エリザベータ女帝以来ロシア皇帝歴代の宮殿であった冬宮と、これに増築された小エルミタージュ、劇場、旧エルミタージュ(いずれも18世紀後半)、新エルミタージュ(1851)の五つの建物からなる。(日本百科全書)
  • 4
    確定した領土をもち国民を主権者とする国家体制およびその概念。17世紀のイギリス市民革命、18世紀のフランス革命にみられるように、絶対王制に対する批判として君主に代わって国民が主権者の位置につくことにより形成された近代国家、あるいはその近代国家をモデルとして形成された国家を指す。(日本百科全書)
  • 5
    ナポレオン戦争の戦後処理を通じてつくり出された支配体制。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導したことから、欧米ではメッテルニヒ体制Metternich Systemとよぶ。ナポレオン戦争に勝利したヨーロッパの君主、貴族などの復古勢力は、フランス革命を端緒とする革命の大波の復活を抑え込み、ウィーン会議が生んだ国際秩序を維持するためにこの体制を必要としたが、そのために依拠したのが神聖同盟と四国同盟(のちに五国同盟)という2本の柱であった。(日本百科全書)
  • 6
    ドイツの政治家。プロイセンのユンカーの出身。ゲッティンゲン,ベルリン大学に学び,プロイセンの官吏をへて,プロイセン連合州議会議員として政治活動に入る。1848年の三月革命期には極端な保守・反革命主義者として登場したが,その後,ドイツ連邦のプロイセン公使,ロシア大使,フランス大使などを歴任するなかで,プロイセン国家の拡大・強化のためにオーストリアとの対決とドイツ統一問題の利用について認識を深めた。62年プロイセン首相となり,いわゆる〈鉄血政策〉にもとづき普墺戦争(1866)に勝利するとともに,国内紛争(プロイセン憲法紛争)を収拾し,さらに71年,普仏戦争に勝利してドイツ統一を完成し,ドイツ帝国初代の宰相(1871-90)となった。(世界大百科事典)

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