2022/09/22追記
9月23日の「リキさん x パピヨン阿部店長」イベントのライブアクトが発表された。リキさんにゆかりのある人たちが音楽を披露する。ミュージックチャージは発生しないという。
オーナーである「界隈のオジーオズボーン」ことBOOKER氏の粋な計らいだ。
子弟の復活
9月23日、伝説の師弟コンビが復活する。
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【愛妻家】パピヨン阿部店長はハプバーの未来を見据える
場所は新宿パラスロゼ。
時間は21時〜24時のたった3時間。
それは神様のいたずらによって、時空の歪みに生じた偶然の出来事のようだ。
プロデュースは「界隈のオジーオズボーン」ことBOOKER氏が務める。
一つのお願い
今回のコラムの趣旨は、いつものように何かを分析して論述することではなく、たった一つの願いをより多くの人に届けることにある。
願いとは何か。
当日何らかの用事で新宿にいる界隈の人たちは、一瞬でもいいので、この奇蹟の空間に身を委ねて欲しいとうことだ。
そして、願わくば祝杯をあげて欲しい。
界隈に身を奉じた者に対する感謝の念を込めて―‐
9月23日はそのような日になる。
語るほど野暮になるので事の詳細は省き表題の解説に移ろうと思う。
「界隈の全ては義理と人情で出来ている」
言い換えば、損得を超えたコミットメントによりコミュティが成立しているのである。「ルールに書いていないからやった」「クリックできるからやった」というような、目先の合理性で成り立つネットゲームやSNSとは次元が異なるのである。
思想家ジャック・デリダは『散種』において、毒と薬という相反する意味を持つパルマコンという言葉の両義性を指摘したが、SNSはまさにパルマコンである。そしてTwitterは毒性の強いSNSだ。
なぜだろうか。
デリダが論じるように、エクリチュールは無限に自己解釈され、永遠に参照・誤読され得る。
(エクリチュールとは「書かれたもの」を指し、話し言葉を意味する「パロール」と対立する概念である)
しかし、エクリチュールの一種であるTwitterは、後述のとおり、現実の他者やコミュニティが存在しないことから訂正可能性がなく、一つの言葉をめぐって自尊心が傷つけられるような事態に陥るリスクが高いからだ。
(文字だけのTwitterが衰退し、画像だけのInstagramにブームが移行した理由もそれだろう)
実際のところTwitterで日々起こっていることは、損得の利害関係により繰り返される些細な諍いに過ぎない。トラブルが起きるたび、調停する人間もいないので、双方がブロックすることによってのみ事態が終息する空虚な世界だ。それは非現実の日常に過ぎない。
しかし界隈はそれとは異なり、現実の非日常である。お互いの素性は知らないながらも生きた人間関係であり、個人の利害関係を超えた何かが常に意識へ働く。そしてそれは時に制約的でありながらも、界隈を界隈たらしめる。
世界はそれを義理人情と呼ぶ。
今回は「界隈のオジーオズボーン」ことBOOKER氏がまず動いた。
そしてパピヨン阿部店長がそれに続いた。
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【愛妻家】パピヨン阿部店長はハプバーの未来を見据える
そうであれば、われわれが取るべき行動については、もはやここで繰り返し述べる必要もないだろう。
しかし最後に、これだけは繰り返したい。
「界隈の全ては義理と人情で出来ている。」
「SNS の全ては嘘と損得で出来ている。」
【了】
【更新履歴】
2022/09/17公開
2022/09/22追記