「ノーハプバー・ノーライフ」
少しハニかんだ表情でそう言い放つと、男はカニ歩きでクルマに乗り込んでいったーー
それは錦糸町が禁止町へと変わりゆく姿を、界隈民が目の当たりにした瞬間であったーー
そして「到底納得できない」に続く名言が誕生した日として、界隈の歴史に刻まれていくことだろう。
「ハプニングがなければ人生ではない」
そのような哲学的な問いかけを残したオーナーが、界隈から姿を消してひと月と数日。
オーナーが喪主をつとめる告別式の開催が、いよいよ公表された。
式は法律の範囲内でワイワイと執り行われる。
告別式は無宗派で開催されるため、ノンハプバーの民、しっとり系の民など、錦糸町の内外から幅広い界隈民の参列が見込まれる。
さらにもう一つ、この日は喪主の生誕祭も同時に開催される。つまりノクターンを弔うだけではなく、オーナーの誕生日も祝うイベントになるのだ。
ところで「ノーハプバー・ノーライフ」が意味するメッセージとは、どのようなものであろうか。
それはグローバルに拡大した資本の論理のもと、生成AIやSNSによって生活が覆いつくされ、偶発性よりも計算可能性に重きを置く現代社会に対する抗議であると、私は理解している。
生も死も偶発性と共にある。
生と死を計算可能性の外部に並置することによって、復活の可能性も偶発的に生じるというオーナーの死生観が、式の案内に記された「再誕祭」という言葉には込められているのではないだろうか。
つまり、生と死を人間やAIの手には届かない、純粋な偶発性と捉えることで、「復活」という概念が前景化してくるのである。
生は死を、死は生を、私たちにもたらす。
そのような生と死が交わり合うカオスを、古来より私たちの社会では祝祭の場としてきたのだ。
ハプニングは生死を超越する。
偶然と偶然のはざまに、人生の実りがあるーー
この週末はそう信じる者の集いになることだろう。
錦糸町の夜想曲は来世でも鳴り続けるーー
【了】