グルメ革命は永続する(2024/2/10追記)
ハーネス東京のグルメ革命は永続する。
そう確信せざる得ない出来事が起こった。
グルメへの挑戦は、食材を台湾にまで行って調達するという「台湾フェス」をもってひと段落したと思われていた。しかし連休中の2月11日に焼きそばとフランクフルトという「屋台グルメ」に挑戦することが発表されたのである。
革命運動として高級食材による美食を提供し続けてきたハーネス東京が、なぜ今になって「屋台グルメ」に挑戦するのだろうか。
その疑問に対して、私なりの推論を提示することが本稿の目的である。
スペース配信によれば、今回の屋台グルメについては、普段からイベントをオーガナイズする共同オーナーの発案ではなく、スタッフによる提案であるというのだ。
あくまで推測の域を出ないが、2周年イベントを来月に控えて、「初心に立ち返る」という、スタッフからのメッセージが込められているように思えるのである。
もともとグルメイベントを始めた当初の動機は、屋台レベルの軽食を提供していた既存店に対するチャレンジであったからだ。業界全体を巻き込む形で、屋台からレストランのレベルまで、グルメイベントのクオリティを引き上げるということが当初の目的であったのだ。そして私はそのような取り組みを「革命」として捉えて、前述のコラムを執筆したのである。
たしかにハーネス東京は、人気店とコラボレーションしたグルメを提供するなど他店が追随する余地がないイベントを開催してきた。一方で冷凍のフランクフルトや業務用焼きそばをホットプレートで調理するという屋台的な手法ではなく、ラーメンやカレーなどのいわゆるB級グルメを追求する店を増えて、話題を集めているのが現状である。
そうであれば、ハーネス東京があえてB級グルメ、それも屋台グルメにチャレンジするのも、初心に立ち返るうえで意義のあることではないだろうか。
今まで数々のグルメイベントで結果を残してきたハーネス東京であれば、焼きそばとフランクフルトという屋台グルメであっても、「スペシャリテ」を提供できるという自負の表れではないだろうか。特別なグルメをサービスしたいという想いは、特別な時間を提供したいという店の願いであったはずだ。それがグルメ革命の初心である。
そしてそれは、来月に2周年のアニバーサリーを控えて、初心に立ち返ろうとする謙虚さと、これまで様々な趣向のイベントによって店を盛り上げてきたというプライドが入り混じった、微妙な心境を示しているように私には思えるのである。
ビジネス上、時としてシビアな判断を迫れられることも多いオーナーも、グルメイベントをオーガナイズするときは、山岡46氏として別の顔を覗かせ、声にならない想いをわれわれに投げかける。
「連休中の2月11日はハーネス東京に来てください。本当のフランクフルトと焼きそばを食べさせますよ」
2周年のアニバーサリーイベントに向け、ハーネス東京のブーストが始まる。
【了】
追記(2022/12/15)
当コラムをハーネス公式のスペースで紹介いただいたおかげで、順調に読者が増えている。
そのお礼といっては忍びないが、追記としてスペース配信の内容をもとに、グルメイベントについて補足していきたい。
ハーネス東京では有名料理店とのコラボにも積極的であるという。
その中でも革新的なのは、東京ミッドタウン日比谷などの名だたる商業施設に店を構える一流料理店とのダブルネーム企画である。
味に定評のある有名店の料理をハーネス店内で楽しめるグルメイベントだ。
興味深いのは、これらの協力店は普段、ケータリングのような形で外部へ料理を提供していないということである。
ハーネス東京だけには、特別にメニューに無い料理の連れ出しが認められている。
では、なぜハーネス東京はタブーを赦されたのか?
それはオーナーが空間デザイナーとして、有名商業施設の店舗を手掛けてきたという実績もあるだろうが、ハーネス東京の洗練された内装や接客に定評のあるスタッフのもとであれば、料理を提供しても構わないと店主も納得したからではないだろうか。
一流の料理は一流の店にこそ許されるーー
地上と地下とを分け隔てることなくーー
都心一等地の空中店舗から、台東区雑居ビルの地下店舗へ
そのどちらへも行き来できるような柔軟性や意外性こそがこのお店の特徴であり、もしかしたら、それはお客さんの特性であるかもしれない。
そしてこのグルメイベントは、今後は丸ビルなどへも展開していくという。
聖地を奪還すべく立ち上がった十字軍の遠征のようにーー
一流店の料理をアンダーグラウンドで楽しむという背徳をより多くの人と共有できることを、私は願ってやまない。
1848年パリ、2022年上野
1848年、フランスで起こった二月革命11848年2月22日から24日にかけて、パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した革命をさす。この革命は単にフランスのみならず、オーストリア、プロイセン、イタリアなど西ヨーロッパの諸民族にも大きな影響を与え、さまざまの政治的変動を生み出したものとして記憶される。(日本百科全書)の影響から、欧州各地に革命の波が押し寄せ、民族意識2民族を構成する人々が、自己の所属する民族そのものについて、ほぼ共通に抱くところの観念ないし意識であって、一般に集団意識ないしは社会意識とよばれているものの一つの類型である。民族は高度にゲマインシャフト(共同社会)的な性格をもつ社会集団であるところから、他の集団意識とは異なった、いっそう強い同類意識と、したがってまた他民族に対する差別意識とを主内容とするそれ独自の統合力をもつことになる。(日本百科全書)や自由主義317、18世紀の市民革命期に登場した政治・経済・社会思想。絶対君主の抑圧から解放されることを求めて、近代市民階級が、人間は何ものにも拘束されずに自分の幸福と安全を確保するために自由に判断し行動できる存在となるべきことを主張した思想である。(日本百科全書)の高まりによって、ウィーン体制41814-15年のウィーン会議で,イギリス,フランス,ロシア,プロイセン,オーストリアの五大国が中心となってヨーロッパの政治的再編がはかられたが,その後ヨーロッパ諸国の勢力均衡を利用しつつ,オーストリア宰相メッテルニヒが中心となって推し進めた,48年革命まで続く政治体制をいう(ドイツ史ではとくに,1848年の三月革命以前のこの時代を三月前期Vormärzとよぶ)。その政治的原理は復古的保守主義であった。(日本百科全書)は崩壊に至る。
これら一連の革命を「諸国民の春」51848年革命(1848ねんかくめい)は、1848年からヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命。1848年から1849年にかけて起こった革命を総称して「諸国民の春」(仏: Printemps des peuples, 独: Völkerfrühling, 伊: Primavera dei popoli)ともいう。(Wikipedia)と呼ぶ。
欧州諸国は革命を経由して、国民国家6確定した領土をもち国民を主権者とする国家体制およびその概念。17世紀のイギリス市民革命、18世紀のフランス革命にみられるように、絶対王制に対する批判として君主に代わって国民が主権者の位置につくことにより形成された近代国家、あるいはその近代国家をモデルとして形成された国家を指す。(日本百科全書)を樹立したのである。
美女と野獣のコラムでも記したとおり、2022年における界隈は、諸国民の春が起こった1848年の情勢に相似しているように思える。
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【美女と野獣】新宿5丁目の赤い部屋
それは各店舗がポストコロナ後の新しい時代に対応すべく、新しいフレームワークを模索する最中、革命とも言えるような斬新な手法が界隈に伝播しつつあるからだ。
一体それはどのような革命なのだろうか?
ここのところ、各店舗で連鎖的に盛り上がりつつあるグルメイベントがそれである。
コロナ渦での行動制限が緩和された影響もあるが、食べ放題イベントを開催したり、平日に焼肉イベントを突発で開いたりする店が目立ってきたように思えるのだ。
界隈でグルメイベントに革命が起こり、食べ放題イベントが開催されたり、従来のグルメイベントが高級化しているのである。
それでは革命の中心地はどこであろうか?
上野のハーネス東京が革命の中心地であると、私は考察している。
今回のコラムの目的は、ハーネス東京のグルメイベントへの取り組みを通じて、昨今のグルメイベントの実情の分析することにある。
クオリティ x コラボレーション
前節では、1948年の諸国民の春をアナロジー7類比またはアナロジーともいう。二つの物事に共通点があることを認めたうえで、一方の物事にみられるもう一つの性質が他方にもあるだろうと推論すること。たとえ話による推論といってもよい。(日本百科全書)として、2022年の現状を考察し、前者の中心地はフランス、後者の発信地はハーネス東京であることをわれわれは想定した。
続く本節では、まず各店舗のグルメイベントについて紹介した後、ハーネス東京の先進的かつ独自の取り組みについて具体的に検証していきたい。
まず新宿では、深夜帯の人通りの多さを考慮し、いつ来店しても食事ができるように、食べ放題のイベントが開催されている。
たとえば、新宿カラーズは、寿司やカニ鍋の食べ放題イベントを11/2に開催している。
同じく新宿の九二五九も、9/16と11/25に肉の食べ放題イベントを実施している。
両者とも食べ放題であり、新宿らしいイベントであるといえよう。
また、上野パピヨンのように、焼肉のたれが余っているという理由だけで、突発的に焼肉イベントが開催されるようなお店もある。
突発イベントの開催については、Twitterを見ていないと分からないので、同店のSNSマーケティング戦略の巧みさを感じさせるところである。
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【愛妻家】パピヨン阿部店長はハプバーの未来を見据える
相葉たつや氏のように、焼肉と講習会を組み合わせたイベントもある。
また、大久保ウベアのようにイベントではないが、店内でスイーツを販売するケースもみられる。
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【百人町の“O”】ウベアの半年と台湾カステラ
このように、ここ数か月のあいだで、グルメイベントが多様化・活発化しているのである。
以前よりグルメイベントは各店舗で実施されていたが、質、量ともに予算を強く意識したものであった。
しかし最近は各店舗でグルメイベントの内容を競い合っているようにも感じられるのだ。
何をきっかけにグルメイベントは変貌を遂げたのだろうか?
時系列から考察すると、ハーネス東京が7/24から始めた肉イベントがその嚆矢であると考えられる。
ここでは同店のグルメイベントについての考察を試みたい。
同店のグルメイベントの特徴は、クオリティとコラボレーションの2つで成立している。
まずクオリティについて言及すると、同店の洗練された内装と同様にこだわり抜いた食材が提供されるのである。それは毎月行われている「肉フェス極」というイベントに顕著である。
先述したように、食材を切らさないことを優先しなければならない新宿の店舗では、このようなクオリティの追及は実現が難しいかもしれない。
続いて、もう一つの柱であるコラボレーションについて言及する。
ハーネス東京は、有名なタイ料理店、シンガポール料理店、とんかつ屋など実店舗と提携し、イベント用のオリジナルのメニューを提供しているのである。
また、コラボ店の料理が特別にブッフェで提供されることがあるが、そのためによくホテルなどで見かけるチェーフィングディッシュ(保温機)まで購入したというのだから、その本気度合いが伺えるところである。
業態を考えた場合、このような有名料理店とのコラボレーションは難しそうであるが、それを実現に導いたのは、同店のブランディングとオーナーの交渉力によるところであろう。この点も他店舗では実現が難しいだろうし、そもそも営業戦略に組み入れていないと考えた方が正確なのかもしれない。
魯山人とハーネス東京
前節では各店舗のイベントと併せて、ハーネス東京のグルメイベントについて紹介した。
本節ではハーネス東京の「肉フェス極」というイベントについて具体的に論評したい。
これまでもレム・コールハース8デザインと理論の両面において精力的な活動を続けるオランダの建築家。1944年生まれ。75年に設計組織OMA(Office for Metropolitan Architecture)を立ち上げる。モダニズムを批評的に変形させたポストモダン的な作品と、刺激的な都市論「錯乱のニューヨーク」によって注目された。や磯崎新9建築家。大分県に生まれる。1954年(昭和29)東京大学工学部建築学科を卒業、同大学院に進み、丹下健三に師事、1961年博士課程修了。カリフォルニア大学、ハーバード大学、エール大学、コロンビア大学などの客員教授を務める。1963年磯崎新アトリエを創設。40年以上の活動において、建築の形式や引用に注目し、多様な表現を展開しつつ多数の著作を発表した。(日本百科全書)などをリファレンスとして建築を論じることはあったが、今度は食についての批評である。
私にとって、食を論じる際のルーツとなるのは北大路魯山人10陶芸家、書家。本名房次郎。明治16年3月23日、京都・上賀茂 (かみがも) 神社の社家 (しゃけ) の次男に生まれる。初め西洋看板のペンキ屋を開く。1904年(明治37)東京に移り、同年11月、日本美術展覧会に千字文 (せんじもん) の書を出品して一等賞を受け、以後書に打ち込み、29歳からは篆刻 (てんこく) も習い始めた。陶芸に手を染めたのは15年(大正4)からであるが、19年には古美術商を営み、翌年春にはそのかたわら会員制の「美食倶楽部 (くらぶ) 」を発足させ、さらに25年には東京麹町 (こうじまち) の星岡 (ほしがおか) 茶寮の顧問兼料理長として料理・食器の演出に携わるなど、天衣無縫の生活を続け、美的生活に耽溺 (たんでき) していった。(日本百科全書)をおいて他にいない。
魯山人は言う。
料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている。
魯山人
魯山人は食を芸術として捉えただけでなく、「美食」として批評の対象にまで次元を高めたと言ってもいいだろう。
また魯山人はこうも断じている。
天然の味に勝る美味なし
同上
素材(マテリアル)の良否が味に優劣をつけるという魯山人の思想を表しているようである。
マテリアルに対するこだわり——
そのような姿勢はハーネス東京の内装にも見て取れるだろう。
たとえば、バーカウンターの天板には、天然石のパープルアゲート(紫瑪瑙)を贅沢に使用する。
背面からLEDで照らすように施されている他、余計な小細工は一切ない。
天然のマテリアルそのものに主眼を置いたコンセプトだ。
「天然に勝る美はない。」
ハーネス東京のオーナー兼空間デザイナーはそのように語りかけているように私には思える。
だからそのコンセプトは料理に対しても、当然に貫徹される。
オーナーが直々に上質な肉を仕入れ、カーボンヒーター搭載の無煙ロースターで調理する。
お客は焼き立てで供される肉に——各種調味料が取り揃えられているが基本的に——岩塩 をふって天然石のバーカウンターで食する。
専用サーバから注がれるデンマークのビールで、ときにのどを潤しながら——
ハーネス東京の「肉フェス極」とは、そのような催しである。
豪華なバーカウンターの経由して、上質な肉が料理へと姿を変え、次々と来客に食される。
そして、その一連のプロセスは、一般的な料理店ではなく、豪華な内装の地下空間で行われることから、まるで異教徒の儀式のようであり、背徳的な魅力さえ漂う。
しかし、儀式のように、すべてが完成・定型化されているわけではない。
「肉フェス極」という儀式の司祭によれば、仕入れる食材を少しづつ変えるなど試行錯誤しているほか、回を重ねるごとに、肉の切り方や焼き方などの技術も向上しているというのだ。
このようにして「肉フェス極」は、サグラダファミリアのように終わりの見えないアップデートを繰り返しているのである。
美食の追求、それ自体が尊いとばかりに——
そして、美食にフェティッシュを見いだし、それに耽溺するかのように——
たとえば、フランス、ピレネー産のラムラックは象徴的だ。
オペレーションの効率よりも食材のクオリティを優先し、あらかじめ切り分けられたラムチョップではなく、ラムラックという塊のまま仕入れて、それを柄に螺鈿が施された美しいナイフで丁寧に一つずつさばいているのである。
ここまでくれば、味について言及するのは野暮というものだろう。
それ以外にも、豚はイベリコ豚を提供する。
それも単なるイベリコ豚ではない。
ベジョータ(スペイン語で「どんぐり」)を食べて育った最高峰のイベリコ豚の「イベリコ・ベジョータ」である。
あえて味について言及すれば、牛と豚の中間のような複雑な味わいでありながらも、脂身はナッツの脂肪分のようにクセがなく、すぐに口の中でとけて甘みすら感じさせるほどだ。
デンマークのビールも素晴らしいが、これにはカベルネソーヴィニヨンのようなしっかりとした赤ワインが合うことだろう。
幸いなことに、オーダーメイドの京都「MATUBISI」製ワインセラーがこのお店にはあり、魅力的なボトルたちがわれわれを待っている。
——前出のラムラックであれば、白ワインのシャブリを取り合わせてもよいだろう。
最後に紹介するのは牛である。
良質なものをより多く提供するために、あえて産地は指定せずに和牛を塊で仕入れているとのことだ。
また部位についても、全体のバランスを考えながらオーダーしているようである。
ここで再び魯山人の言を引用しよう。
お料理は即刻即用が大切であります。
同上
魯山人が言うように、料理にはタイミングが重要だ。
牛肉は熱に弱く、火の通し方が特に難しい食材である。
その牛肉が無煙ロースターで丁寧に焼き上げられ、ちょうどよい食べごろで供されるのである。
あとはビールでも赤ワインでも好きなように振舞えばよい。欲望のおもむくままに。
ここまでくれば、冒頭の引用で魯山人が言ったような人間の一番原始的な本能は充たされていることだろう。
少なくとも食においては——
しかし、ここにおいて私には不安がよぎるのである。
美を極めんとする魯山人は、美食においてその実践の場として「星岡茶寮」という料亭を開いたものの、美食家の期待に応えることを追求して、利潤を二の次にした。
そのため、魯山人はその評価に比して、富を成す機会にはけっして恵まれなかったのである。
お節介ながらも、肉と酒のマリアージュに恍惚としながらも、ハーネス東京の繁盛を祈りたい気分になってしまう。
しかしそうあればこそ、次のように断言できる。
ハーネス東京は合理性や利潤ではなく、本能の充足と美を追求する、極めて洗練された空間である、と。
カーニバルとしてグルメイベント
ところで、以前に新宿の九二五九の肉イベントをコラムで取り上げ、そのタイトルに「謝肉祭」という言葉を入れたが、これは意図的な誤用である。
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【もう一つのレクイエム】九二五九と10辛のアンダーグラウンド
謝肉祭は、収穫祭のように家畜に感謝して、それを食する儀式ではない。
カトリック圏ではキリストの断食をしのんで肉食を絶つ、四旬節という習慣があるが、その四旬節の前日に肉を食べる行事なのである。
カーニバルとも呼ばれ、ラテン語のカロ・ウァーレ caro vale(肉よ、さらば)またはカルネム・レウァーレ carnem levare(肉を取り除く、肉食を絶つ)が語源とされているのである。
一般的にイメージするのはリオのカーニバルではないだろうか。
食事だけではく、仮装によるダンスパレードも謝肉祭のうちの一つである。
謝肉祭の目的はそれだけではない、旧ソ連の文芸批評家、ミハイル・ミハイロビッチ・バフチン11ソ連の文芸学者、美学者。1920年代初頭より、文学・美学関係の著作を数多くものしていたが、当時公刊されたのは、ドストエフスキーの作品がもつポリフォニー的性格を解明した『ドストエフスキーの創作の諸問題』(1929)と、数編の小論のみである。(日本百科全書)が言うように、カーニバル(謝肉祭)とは価値観が倒錯するイベントなのである。
(バフチンはセルバンテス12スペインの小説家。奴隷生活・入獄など波瀾に富んだ生涯を送り、想像力と才知にあふれる作品を残した。小説「ドン=キホーテ」「模範小説集」、戯曲「幕間狂言」など。(デジタル大辞泉)の『ドン・キホーテ』13スペインの小説家セルバンテスの代表作。正式な題名を『才智 (さいち) あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Manchaといい、第一部が1605年に、そして第二部が1615年に出版された。(日本百科全書)をカーニバル文学の代表として高く評価した)
つまりカーニバルとは、支配者が被支配者に、人間が動物に、インモラルがモラルに、聖が俗に入れ替わる祝祭なのだ。
前述のコラムのタイトルは、バフチンのカーニバル論を意識して、あえて「謝肉祭」という言葉を用いたのである。
そうすると、バフチンの議論を踏まえれば、謝肉祭という言葉は誤用ではないようにも思える。
ハーネス東京をはじめとしたアンダーグラウンドなお店は、日常生活の価値観の転換させることで、自身の欲望を開放することを目的としているからだ。
そう考えると、色々なお店で謝肉祭が行われているのも納得がいくところである。
ところで、ハーネス東京の謝肉祭は、装飾の施された包丁でオーナーが直々に肉を切り分けているようだ。
何かフェティッシュな雰囲気が漂うし、その姿に嗜虐性を感じるのは私だけではないはずだ。
再びのフェリーニ
ここで数か月前のコラムをご覧いただきたい。
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【オープン半年の記念に寄せて】フェリーニの8 1/2、ハーネスの4 1/2
コラムでは、ハーネス東京のオープン半年(1/2)に合わせて、フェリーニ14イタリアの映画監督。ネオレアリズモ映画の一翼を担い、人間の精神世界を重視して独特の映像を創造した。代表作「道」「甘い生活」「サテリコン」「カサノバ」など。(デジタル大辞泉)の映画『8 1/2』151963年製作のイタリア映画。モノクロ作品。フェデリコ・フェリーニ監督の9本目の作品だが,第1作の《寄席の脚光》(1950)はアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督であったので1/2と数え,総作品本数の81/2をそのまま題名にしたものである。(世界大百科事典)を紹介した。
そこで取り上げた主人公の言葉を引用しよう。
人生はお祭りだ 一緒に過ごそう
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』
ここで言うところの「お祭り」はカーニバルを指すものだろうし、指摘するまでもなく、フェリーニの映画こそカーニバルそのものだ。
実のところ、1848年になぞらえて、同年に出版された以下の書物を文末で引用する予定であった。
ブルジョワ階級は、生産関係を、したがって全社会関係を、絶えず革命していかなければ生存できない。
カール・マルクス『共産党宣言』
しかし、フェリーニを前にしては、カール・マルクス16ドイツの経済学者・哲学者・革命家。科学的社会主義の創始者。ヘーゲル左派として出発し、エンゲルスとともにドイツ古典哲学を批判的に摂取して弁証法的唯物論、史的唯物論の理論に到達。これを基礎に、イギリス古典経済学およびフランス社会主義の科学的、革命的伝統を継承して科学的社会主義を完成した。また、共産主義者同盟に参加、のち第一インターナショナルを創立した。著「哲学の貧困」「共産党宣言」「資本論」など。(デジタル大辞泉)の革命論もこの店には似つかわしくないだろう。
フェリーニに敬意を表し、コラムのタイトルは改めなくてはならないようだ。
グルメイベントは革命ではなく、カーニバルだ。
カーニバルとしてのグルメイベント——
色々なお店で催されるグルメイベントがカーニバルのきっかけになることを願ってやまない。【了】
【更新履歴】
2022/12/04公開