【ハプバー考古学#03】Le Grand Bleu 〜深く潜る

2022-07-14

人類史上初の快挙

冒頭の引用は、伝説的なフランスのフリーダイバー、ジャック・マイヨールが残した言葉だ。

彼は素潜りで、人類史上初の100メートルを超える記録を作っただけではなく、海に深く潜ることで何かを悟ったのである。

リュック・ベッソンが監督した彼の自伝に基づく映画も、1988年に公開されて、世界的な大ヒットとなった。

この映画によって彼の存在を知ることになった人も多いはずだ。

今回のコラムは、ジャック・マイヨールと同じように、未踏の快挙を成し遂げた店を取り上げよう。

「人類史上初」のハプバー、グランブルーである。

潜水調査

さて前回の発掘調査によって、日本初のハプバーは、2000年オープンのグランブルーであることが判明した。

しかし、それと同時に、以下の課題に直面することにもなった。
まずは調査結果の概要を報告させていただきたい。

調査課題

  1. グランブルーは新宿でオープンしたが、六本木にも出店していたのか
  2. 同店の店名は、「グランブルー」なのか、「Le Grand Bleu」なのか

調査結果

  1. グランブルー新宿店は2000年5月25日にオープンした。
    グランブルー六本木店は、もともとCAT'S(2002年3月10日オープン)というハプバーであったが、2003年3月15日に同店名に変更した。
  2. 店名は「Le Grand Bleu」であるが、フランス語の定冠詞を省略して、「グランブルー」の通称となっている。

グランブルーとは?

続いて、調査結果の詳細を解説しつつ、グランブルーがどのような店であったのかについて言及したい。

まず店名であるが、1998年に公開されて大ヒットしたリュック・ベッソン監督「ルグランブルー」からインスパイアされたものであると推測できる。

映画「ルグランブルー」をイメージさせる、店のロゴデザインであるからだ。
(著作権の考え方については、文末を参照いただきたい)

それでは、どのような店の雰囲気であったのだろうか?

前回コラムに引き続き、「遊びの学校」の記事を引用させていただきたい。

「グランブルー」は当時のハプニングバーには珍しく、デザインやインテリアも凝っていて、とてもスタイリッシュだった。酒などの種類も豊富で、ウィスキーから焼酎まで、何でも揃っていた。そこにハプニングがなければ、普通のバーといってもおかしくないくらいだ。

〜中略〜

そんな中、「グランブルー」は、大型ハプニングバーの先駆けとして、多くの模範になっていく。そのラグジュアリーで、ゴージャスな空間作り、マナーやルールの徹底など、参考にする店も出てくる。

「遊びの学校」第七回公開講座

記事によれば、グランブルーは日本初のハプバーであっただけでなく、店舗規模も大きく、内装などもこだわっていたようである。

「当時、大きなハプバーはグランブルーくらいしかなかった」というような話を聞いたのを記憶しているが、記事の内容と整合的である。

グランブルーの営業期間は2000年~2006年であるが、その間は、2004年に新宿でオープンする美女と野獣、そして2006年に渋谷でオープンする眠れる森の美女くらいしか、大規模なハプバーは存在していなかったように思える。

まだカップル喫茶が多かった時代であるし、それ以外のハプバーも新宿ハッピー(2002年オープン、現在も営業中)、錦糸町turn over(現在のロタティオン)などの小箱が中心であったからだ。

そう考えると、グランブルーは日本初のハプバーであっただけではなく、ハプバー初の大型店舗であったということになる。

また当時のWebサイトには、店内の写真も公開されているが、ルームなどもあり、現在のハプバー設備とそう変わらない印象を受ける。

つまり、グランブルーは、今のハプバーの原型であったということだ。

貴重な一次史料について

次の課題に移る前に、前回のコラムでも引用させていただいた、「遊びの学校」第七回公開講座について説明させていただきたい。

「遊びの学校」は『Love&Sex Navi!』という大人の遊びを紹介するブログのコンテンツの一つである。
「遊びの学校」というタイトルで公開講座を行っており、2009年9月12日に行われた第7回ではグランブルーの責任者がゲストとして登壇した。

ハプバーのスタッフが公に店について語る機会は極めて少なく、その内容がテキストとして残されていることはほとんどない。
その意味で、引用させていただいた「遊びの学校」は、ハプバーの歴史を紐解くうえで、非常に貴重な史料である。

本コラムも「遊びの学校」がなければ成立しなかったといっても過言ではない。

タイムライン

話題をグランブルーに戻そう。

グランブルーは2000年5月25日に新宿でオープンした。

お店のあった「新宿区歌舞伎町2-45-7 石井ビル5F」がハプバー生誕の地である。
(住所はWebサイトで公開していなかったが、すでに店舗は閉店しており、影響はないと考えて記載することとした)

2001年10月3日には、同ビル6Fに姉妹店として、カップル喫茶「SEA DASH」をオープンする。

もっとも営業期間は短く、2002年12月29日にはクローズしてしまう。
別の回で詳しく取り上げるが、2000年以降は、ハプバーが人気になる一方、カップル喫茶が急速に衰退していくのである。

そうかといえば、2005年1月3日に再びカップル喫茶として復活を遂げる。
(2003年~2004年の間、石井ビル6Fがどうなっていたのかは不明)

しかしながら、2005年にはすでにカップル喫茶の文化が退行していたの、同年3月からは、月曜日と火曜日にかぎり、同ビル5Fのハプバー、グランブルーとの行き来が自由になる。

そして、2006年4月には実質的にカップル喫茶が消滅し、5Fと6Fがハプバーとなるのだ。、
このような2000年~2006年までの変遷は、カップル喫茶がなくなっていく過程を象徴しているようできわめて興味深い。
実際のところ、同時期には、既存のカップル喫茶が単男入店デーを作ったり、ハプバーの系列店を作ったりして、カップル喫茶のハプバー化が加速するのである。

続いて、六本木店についても説明しよう。
元々は2002年3月16日にハプバー「CAT'S」としてオープンした。

所在地は「東京都港区六本木3丁目8−6 須藤ビル1F」である。
六本木でビルの1階にハプバーがあったというのは驚きである。

そして、ちょうど1年後の2003年3月15日、グランブルーに名前を変更している。

グランブルーは、新宿に2フロアー、六本木に路面店と順風満帆であったが、突如として暗雲が立ち込める。
2006年9月9日に六本木店が摘発されてしまったのである。

そして新宿店も同年中にクローズを迎えて、6年に渡る同グループの営業に幕を閉じることになる。

「グランブルー」は、ハプニングバーが隆盛を極めた時代の先陣を駆け抜け、2006年に華々しく幕を閉じた。同店の閉店を惜しむものは数知らず。ラストウィークは連日、押すな押すなの大盛況で、超満員だったという。

同上

同年には渋谷に眠れる森の美女がオープンする。
グランブルーから新しい世代へバトンを渡したかのようである。

残された課題

ここまでグランブルーのオープンからクローズまでの道のりをたどってきたが、次回の発掘調査に向けて、以下の課題が残された。

  • グランブルーの前身となるオリーブとはどのような店だったのか

90年代半ばになると、五反田の「LOVE2」、新宿の「ドール」など、カップル喫茶が再ブームとなる。「グランブルー」の前身になる「オリーブ」(現在の「オリーブ21」とは別店舗)もできている。

同上

上記引用によれば、現在の「オリーブ21」とは異なる、「オリーブ」がグランブルーの前身として存在したようだ。所在地と営業期間が気になるところだ。

続いて、プロジェクトの目標として、「ハプバーの店舗一覧」を作成しており、以下の事項も調査が必要である。

  • Le Grand Blue 新宿店のクローズはいつか
  • SEA DASHのクローズからLe Grand Bleu "More"のオープンまでの間は、石井ビル6Fはどうなっていたのか
店名形態所在地オープンクローズ備考
Le Grand Blue 新宿店ハプバー新宿区歌舞伎町2-45-7 石井ビル5F2000/5/242006/?/?
Le Grand Blue 六本木店ハプバー東京都港区六本木3-8-6 須藤ビル1F2003/3/152006/9/9
CAT'Sハプバー東京都港区六本木3-8-6 須藤ビル1F2002/3/162003/3/14六本木店へ店名変更
SEA DASHカップル喫茶新宿区歌舞伎町2-45-7 石井ビル6F2001/10/32002/12/29
Le Grand Bleu "More"カップル喫茶新宿区歌舞伎町2-45-7 石井ビル6F2005/1/32006/4/2新宿店へ統合

グランブルーの最後

初のハプバーとしてグランブルーが営業を始めた2000年から2006年は、激動の時代であったともいえる。
一つはハプバーの登場により、カップル喫茶が歴史の表舞台から姿を消す。

別の機会に取り上げるが、2001年頃から、単独男性の入店を許可するカップル喫茶が徐々に増え、カップル喫茶からハプバーへの鞍替えなどにより、2006年頃にはほとんどのカップル喫茶が閉店する。

これも詳細は次回以降のコラムに譲るが、グランブルーがハプバーブームを巻き起こした結果、リアリティーや鍵などのFC展開をするグループも現れることになる。

そのような状況の中で、グランブルーは役割を終えて、何かを悟ったように姿を消した。

グランブルーのオーナーは、ハプバーが乱立し、大量に資本が投下され、競争が激化するなかで、当初の理念や情熱が失われてしまうのであれば、いっそのこと閉店してしまおうと考えたのではないか。

「情熱を失くすぐらいだったら、情熱に溺れたほうがいい」

自死に至ったジャック・マイヨールが残した言葉を思うと、グランブルーは情熱のままに店をクローズしたように思えてならないのだ。

【了】

【更新履歴】
2022/07/14公開
2022/09/13新サイトへ転載

引用について

Internet Archiveを用いて、各店のWebサイトからコンテンツを引用した。
いずれも本コラムの執筆に必要なものとして改変せずに引用して出典も明記した。

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