【ハプニングから遠く離れて】ゴダール、リヒター、そして千葉雅也、宮台真司

2022-09-30

リヒター、グルスキー、杉本

久々に美術展に足を運ぶことになった。

ここ数年はコロナの影響で、展覧会への入場が制限されたり、目立った企画展もなく、私自身のアートへの興味も次第に薄れていた。

しかし、ゲルハルト・リヒター1ドイツの画家。ドレスデンに生まれる。1948年から舞台や看板のデザインを学びはじめ、58年ドレスデンの美術学校に入学、主に写実主義的な絵画を学ぶ。看板のデザインや写実主義芸術は、旧東ドイツのような社会主義国家では、大いに奨励された芸術だった。(日本大百科全書)の大回顧展ともなれば話は別だ。

2014年に、同じく東京国立近代美術館の企画展で、写真とも絵画ともつかない作品と出会って以来、リヒターのファンであるからだ。

残暑のなか、竹橋の駅から東京都近代美術館までを歩いた。

リヒターは様々な手法で制作するが、そのなかでも私が特に興味を持ったのは《フォトペインティング》という、写真を写実的に描画した作品である。
何も知らずに写真だと思って見てみると、そっくりに書かれた絵画であることに気づく。
そのような錯覚の陥るのは、リヒターが写真特有のボケや輪郭を正確に再現するからだ。

そうすると、我々は現実の風景と写真の違いを思い知ることになる一方、写真と絵画を隔てていたものが崩れ去り、ある種の混乱に陥る。

私はそのような作品に興味があった。

たとえば時と場所を同じくして、2014年に東京国立近代美術館で個展が開かれたアンドレスアス・グルスキー2ドイツの写真作家。ライプツィヒ生まれ。1978年から81年まで、エッセンのフォルクバング総合大学で学ぶ。85年にデュッセルドルフ美術アカデミーのベルント・ベッヒャーのクラスに入り、87年に最初の個展を開く(日本大百科全書)。

グルスキーは、複数のフィルムやデータを合成することにより、現実ではありえない極端に解像度が高く情報量の多い写真を制作する。
写真に映し出されたものは、現実の風景であるが、ディティールの過剰さゆえにかえって非現実的であるようにも思える。

一例を挙げれば、スーパーに陳列されたお菓子の全てのパッケージが精彩に映し出された写真など、人間の知覚にも存在せず、一枚の写真としても存在しない表現をグルスキーは実現する。

先のリヒターと手法は異なるが、写真と現実の間(あわい)が消滅し、我々は奇妙な不安をおぼえる。

以前にもコラムで登場した杉本博司3写真家、美術作家。東京都生まれ。1970年(昭和45)立教大学経済学部を卒業後、渡米。ロサンゼルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学び、74年ニューヨークに移住。当時のアメリカ美術のメイン・ストリームを形づくっていたミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの影響のもとに制作活動を始めた。(日本大百科全書)もそうだ。

【はじまりの記憶】ハプニングの起源について

アメリカ自然史博物で、はく製動物を8x10カメラのモノクロームで撮影した《ジオラマ》というシリーズでは、映し出された動物が本物であるかのように、我々を錯覚させる。

モノクロームの写真を通じて、真/偽、現実/虚構、生/死の区分が消失し、しばし呆然とする。

3人の作家によって共通して表出するものは何か。

それは「規定不能性」である。端的に言えば「世界のデタラメさ」だ。
社会学者の宮台真司氏4日本の社会学者・映画批評家。社会学博士(東京大学・1990年)(学位論文「権力の予期理論〜了解を媒介にした作動形式〜」 )。東京都立大学教授。大学院大学至善館特任教授。(Wikipedia)が好んで使うモチーフでもある。

しかしリヒターは我々をさらに困惑させる。

それは《アブストラクト・ペインティング》という手法によって制作される一連の作品であり、スキージ(大きなヘラ)を使うことによって、作家個人のコントロールを離れ、偶然性を取り入れて描かれる抽象画である。

なかでも圧巻なのは、今回日本初公開となった《ビルケナウ》だ。
一見すると抽象画であるが、実はアウシュビッツ強制集収容所で隠し撮りされたホロコースト51933年から45年までのナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺をさす。600万人が殺されたといわれる。(日本大百科全書)の写真をベースに、《アブストラクト・ペインティング》で絵具を重ねた作品である。

それはホロコーストという現実を表現する唯一の手段であるとリヒターが悟ったかのようにも思える。

コンテクストを理解せずに作品を鑑賞し、絵の具が覆い隠したものがホロコーストであることを知ると、覆い隠せないものが露なるという構図だ。そして《ビルケナウ》の隣には、実際に使用されたホロコーストの写真のほかに、一枚の大きな鏡が展示してある。

作品を鑑賞した後に鏡に映し出される現実を我々は正視できるだろうか。

ここで露呈するものは、《アブストラクト・ペインティング》という、作家の主体から離れた偶発性によっても、現実世界の描写が困難であるという、規定不能性だ。改めて言えば、世界のデタラメさ、そして、我々のデタラメさである。

前置きが長くなったが、今回のコラムのテーマは、「偶然性」と「規定不能性」である。

偶然性から必然性へ

リヒターの作品を鑑賞したあと、「世界のデタラメさ」という言葉が頭に残った私は、竹橋からの帰路、宮台氏の現況をスマホで検索した。
(実のところ、ハプニングバーやカップル喫茶についての研究を始めた動機の一旦は、宮台氏が過去にテレクラの研究をしていたことにもある。)

そうすると偶然にも、哲学者の千葉雅也氏6日本の哲学者、小説家。研究分野は、哲学および表象文化論。学位は、博士(学術)(東京大学・課程博士・2012年)。立命館大学大学院先端総合学術研究科、同大学衣笠総合研究機構生存学研究所教授。(Wikipedia)との対談が目についた。

それは「千葉雅也×宮台真司が語る、性愛と偶然性 「そこで経験する否定性を織り込んで生きていく」というタイトルだった。

私のような現代思想や哲学に興味のある人は、同時代に日本人スターが誕生することを希求する。かつての浅田彰氏7経済学者、社会思想研究者。神戸市に生まれる。1979年(昭和54)京都大学経済学部卒業。1981年同大学院経済研究科博士課程中退。同大学人文科学研究所助手を経て、1989年(平成1)より同経済研究所助教授。2008年より京都造形芸術大学大学院長、のち同大学院学術研究センター所長。(日本大百科全書)がそうであったし、私にとっては、ジャック・デリダ8ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月9日)は、フランスの哲学者である。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。(Wikipedia)に関する著作でスーパーノヴァ9恒星が急激に増光して新星の100万倍もの明るさになり、以後ゆっくり暗くなっていく現象。質量の大きな星が恒星進化の最終段階で大爆発を起こしたものと考えられる。爆発後に中性子星が残されることもある。スーパーノバ。SN。(デジタル大辞泉)

皮肉ではないが、我々がスーパーノヴァの光を見ている時、すでにその光を放った星は存在しない。それは東氏の姿と重なる。『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』での鮮烈なデビュー後は、活動の場をフランス現代思想から、サブカルチャーの批評に移していったからだ。ゲームやアニメなどのサブカルチャーに素養のない私にとって、すでに哲学者東浩紀は不在であり、微かに感じられる余光のみがデリダとの接点になった。(ハプガチ!)
とでも呼べるような輝きを放ってデビューした東浩紀氏10ゼロ年代以降をリードすると言われる批評家、思想家。もともとは、柄谷行人が主宰する雑誌「批評空間」(1991~2000年)でデビューし、「郵便的」とか「動物化」などの術語を駆使し、柄谷、浅田彰以降の現代思想の業界でスター扱いとなった。(情報・知識 imidas)がロックスターのような存在だ。私がデリダついて言及するのも、いまだ東氏の放つ残光のためだ。

もっとも、いつしか私の興味の中心は現代思想からはアートにシフトしていたので、真似事でもいいので、浅田氏のような美術批評をしてみたい11浅田氏が編集に携わっていた季刊誌『InterCommunication』(1992~2008)が美術批評に興味持つきっかけであったように思う。(ハプガチ!)でというと憧れていた。冒頭でリヒターを取り上げたのものそのためだ。

そのような経緯から現代思想や哲学から離れていた私は、千葉氏をジル・ドゥルーズ12フランスの哲学者。その独創的な概念体系と戦闘的な文体によって,いわゆるポスト構造主義哲学の最も強力な思想家として1960年代以降,フランスばかりでなく,日本も含めた世界各国の思想界に強い衝撃を与えた。(デジタル版 集英社世界文学大事典)に関する研究でデビューした当初から知っていたが、もはやロックスターという存在ではなく、なんとなく対談やコラムを読む程度であった。

対談に目を通して驚いたのは、千葉氏がLGBTを題材にした小説でデビューしていたことだ。ハッテン場に通い、フランス現代思想を研究する学生が主人公の物語である。

この対談で千葉氏はゲイの視点から宮台氏はストレートの視点から、それぞれのセクシャリティで性愛を対称的に語る。
私が共感したのは、自身の体験を織り交ぜながら語られる宮台氏の一連の発言だった。

90年代まではノンケの界隈にもハッテン場の施設が東京にありました。僕が通っていた新宿の店では20くらいの個室ブースがあって、男も女もカップルも待機できました。掲示板に自分のポラを張って自己紹介を書き込めました。「この3番の女が良いな」とか「このカップルが良いかな」と選んで、個室をノックして入り、後はなんでもアリでした。

千葉雅也×宮台真司が語る、性愛と偶然性 「そこで経験する否定性を織り込んで生きていく」

宮台氏が通っていた店なのかは分からないが、以前の新宿には、写真を撮影し自己紹介を書いたプロフィールを店の掲示板に張り出して、個室で待機する、「ドリーム」(現在の9259の場所に存在していた)という逆ナンパ喫茶という形態のお店であった。

スペース「ハプニング全史」の配信と「全店舗リスト」の公開について

80年代後半のノンケのナンパの時空では多くの場合、疑似恋愛や瞬間恋愛があって、「この人とずっと付き合い続けたらどうなるのかな」という想像とともに行きずりを楽しみました。そこが醍醐味でもあったんだけど、90年代に入ると疑似恋愛モードが失われ、単にお互いの寂しさを紛らわすためにただやっている感じの寂しい時空になります。

同上

時代は違えども、極めて共感できる発言だ。ハプニングバーでも大半の場合は、疑似恋愛な関係を経由して関係を持つことがほどんどである。スポーツ的な享楽に身を委ねることのできる感受性を持つ人は稀だ。だからこそ、宮台氏のいう「ノンケのハッテン場」という表現には斬新さと違和感を覚える。

セクシャリティや世代の違いを超越し、宮台氏と千葉氏で共通するキーワードは「偶然性」だ。千葉氏はこう言う。

僕が制服少女ならぬ制服少年だった頃の話はリアルサウンドにも寄稿しましたが、その時代にノンケでも行けるハッテン場のようなものが東京にはあったというのは初耳です。それって、今の出会い系アプリなんかよりもずっと偶然性が高い空間なんじゃないかと思います。この“偶然性”は今の世の中を読み解くキーワードで、要するに当時はみんなその偶然性に耐えられたというか、むしろそれを享楽するところがあった。

同上

ある時代のハプニンブバーにあり、失われつつあるものは「偶然性」と「享楽」だ。私はそれを「一回性」や「祝祭」や「多幸感」という言葉にして、いままでコラムにしてきた。

千葉氏の発言に、宮台氏はこう重ねる。

『サブカルチャー神話解体』(1993年)で書いたけれど、性愛的なコミュニケーションの享楽はまさに偶然性にあります。

同上

もしあの瞬間、あの場所にいて、声をかけていなければ――
ハプニングバーで繰り返されるものは、瞬間的に成立するそのような偶然である。

そして祝祭の後に残るのは、偶然性に対する畏敬の念だ。

宮台氏はこう続ける。

必然性を探す人たちが若い世代から増えたのですね。そうした期間を挾んで、90年代後半からの25年間は、統計的にも僕のリサーチから見ても、男女とも性的に退却していきました。長く一緒にいることから始まる性愛が衰退し、ナンパやテレクラが盛り上がった短期間が過ぎると、偶発性が有害だと感じられて、偶発的な出会いに心を閉ざすようになったのですね。

同上

時代は偶発性から必然性に移行にした。ハプニングバーから、ヴァルター・ベンヤミン13比類なく繊細・緻密な散文をもって,時代の要請に根底からこたえる文学活動を展開した現代ドイツの文学者,哲学者,社会科学者。ベルリンのユダヤ系の家庭に生まれる。ドイツ観念論哲学の伝統から,とりわけその批判的精神を学びとった彼は,はやくから自覚的に,批評性とアクチュアリティを優れた文体において実現することを自身の課題としつつ,《ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念》(1920),《ゲーテの〈親和力〉》(1924),《ドイツ悲劇の根源》(1928)などの文学論のみならず,《暴力批判論》(1921)のような文章をも書いた。(世界大百科事典)の言う「アウラ」14W,ベンヤミンは人間と事物の交渉の一回性と全体性を,この言葉で表現し,複製技術の制覇による〈アウラの消滅〉を現代文明の特質とした。(世界大百科事典)やミハイル・バフチン15ソ連邦の文芸学者。1920年代に文筆活動を始める。バフチンの名で出た著作以外に,《フロイト主義》(1927)や《マルクス主義と言語哲学》(1929)をはじめとするV.N.ボロシノフ名義の一連の著作,《文学研究における形式的方法》(1928)といったP.N.メドベジェフ名義の著作も事実上バフチンのものであるとの説もある。(世界大百科事典)の言う「カーニバル(祝祭)」16カーニバルとは古代より続く、国や地域の違いによって様々な形態をとる祭りのことである。カーニバルにおいては、人々の間に通常存在する社会的、身分的な距離が取り払われ、無遠慮な人々の交わりが見られる。また、カーニバルは、動物が人間の衣装を着たり、貧民が国王に扮して国王の衣装を着たりする、価値倒錯の世界でもある。
古代より、広場はカーニバル性をもった場所であった。バフチンによれば、特に中世の人々は、規則にがんじがらめの生活と、カーニバル性を持った広場における生活との、二重生活を送っていたという。カーニバル広場においては、不謹慎、神聖なものに対する冒涜や格下げなど、あけっぴろげな生活が見られたという。(Wikipedia)
が消滅したもの同時期だ。

事前にTwitterで待ち合わせたり、店で出会った後にTwitterでつながるなど、偶然性よりも必然性を重視する遊び方が増えてきたのだ。

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かつては、たった一晩の男女の出会いが言語には還元できない強度や濃密さを持っていた。リヒターの《アブストラクトペインティング》のように。

SNSや検索エンジンなどのプラットフォームが覆う世界では、偶然性や規定不能性に対する恐れが先行する。
なぜだろうか。

資本が優先し、計算可能性のなかでビジネスが繰り広げられる。それは文化や性愛の空間にも及んでいるからだ。
コンピューティングリソース=資本を競う争いであり、我々はそこから脱落してはならないという強迫観念に駆られている。

そのような時代にあって、ハプニングバーでも合理性を追求し、損得だけで立ち振る舞うことによって、自身の本能的な欲求だけを解消する人たちが増えてきた。
そこにかつての祝祭はない。

宮台氏は、損得に動機づけられた振舞いを「クズ」と一蹴する。痛快だ。
実はハプニングバーにおいても、損得だけで振舞って、場の雰囲気を共有しないで遊ぶ人間に対しては同様の表現が用いられる。

話を千葉氏の小説に戻そう。
私が読んだのは『デッドライン』である。本作はフランス現代思想の研究する学生生活と、LGBTとしてのハッテン場のシーンが交錯する物語だ。
前者をメロディ、後者をビートであるとして、宮台氏はそれを音楽的であると表現する。

私であれば、それを絵画になぞらえる。
リヒターの《オイル・オン・フォント》という写真に油彩を施した一連の作品である。

フランス現代思想に興味にある私にとっては学生生活のパートは写真のように鮮明だ。
しかし、ふいに挿入されるハッテン場のパートは、偶発的に写真に垂らされる絵の具のようである。千葉氏の小説は、突如として写真が規定不能なものとして表出する《オイル・オン・フォト》そのものだった。

千葉氏は私に語りかける。リヒターやグルスキー、そしてゴダールの声もそれに共鳴する。
「それこそが世界だ」

ハプニングから遠く離れて

ジャン=リュック・ゴダール17フランスの映画監督。批評家出身で,映画に対する深い愛情と鋭い批評意識に貫かれた斬新(ざんしん)な作品を数多く発表,フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの第一人者としてのみならず,現代の最も重要な監督の一人として活躍を続ける。(デジタル版 集英社世界文学大事典) が尊厳のある最後を迎えた。
かつて討論番組で、宮台氏と「ハプニング」を起こした西部邁氏18評論家。北海道出身。東大入学後にブントのメンバーとなり、東大自治会委員長として安保闘争に参加した。安保闘争から離脱後は東大大学院で近代経済学を専攻し、横浜国立大学助教授、東大助教授、英米への留学を経て東大教授となる。1980年代から保守の論客として活躍し、東大駒場騒動の際に東大教授を辞職。それ以後は在野の評論家として評論活動を行った。2018年に多摩川にて自決する。(Wikipedia)を思い出した。

このハプニングをきっかけとして、私は数多くの西部氏の著作に触れてきた。同時代ではないものの、私にとっては西部氏もロックスターだ。豪快さと繊細さが複雑に交錯する、ローリングストーンズのギタリスト、キース・リチャーズのように――


ゴダールも西部氏も政治闘争のただなかに身を置いて言論活動を続けてきた。

5月革命の前にゴダールは政治へのコミットメントを強めて作風を大きく転回する。
その頃、ゴダールはベトナム戦争を題材として、「ベトナムから遠く離れて」19『ベトナムから遠く離れて』(ベトナムからとおくはなれて、仏語: Loin du Vietnam)は、映画監督のクリス・マルケル製作による、1967年製作のフランスのオムニバスドキュメンタリー映画である。参加監督はオランダの映画監督ヨリス・イヴェンス、フランスのアラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダール、アメリカのウィリアム・クライン。(Wikipedia)と題されたオムニバスドキュメンタリー映画に参加する。

この作品は様々なオマージュを生むことになる。「から遠く離れて」という表現のほとんどは、ゴダールから引用だ。

ゴダールほど、引用され、参照されているにも関わらず、映画そのものが鑑賞されていない監督も珍しい。
ゴダールが政治的に転回した時期の作品は特にである。
私も初期の作品ばかりで、「ベトナムから遠く離れて」は観ていない。

ゴーダルの作品が鑑賞されないのはなぜか。

それはゴーダルが映し出す「世界のデタラメさ」に我々が耐え切れないからであるように思える。
リヒターの《ビルケナウ》であれば、絵画であるためそれは一瞬であるが、ゴダールの場合、映画であるため継続的に感覚を拘束されるからだ。

だから、ゴダールの発言の断片や、蓮見重彦氏20蓮實 重彥(はすみ しげひこ、1936年(昭和11年)4月29日 - )は、日本の文芸・映画評論家、フランス文学者、小説家。専攻は表象文化論。(Wikipedia)のような批評家を経由して、希釈された感受性を受け入れるしかない。

対談に話を戻そう。ゴーダルの映画や千葉氏の小説のように、少々乱暴なカット割りで――
宮台氏はこう言う。

この十数年、僕のゼミにときどきクレームがつくんですが、その内容が「授業が濃すぎる」というものなんです。さらに、性愛の話題を授業で扱うと「扱わないで欲しい」というクレームがつきます。今まで十件クレームがありましたが、全て男子からです。

同上

ゴダールの映画も宮台のゼミも濃い。濃さとは何か。
それはいまさら解説するまでもなく、偶然性や規定不能性に支えられた強度に他ならないだろう。
両者に共通するのは、偶発性や規定不能なもの(世界のデタラメさ)に対する眼差しだ。
言うまでもなく、それは性愛と政治である。
映画はそれを語る補助線になる。ゴーダルは撮ることにって、宮台氏は批評することによって――

そして千葉氏は小説を書くことによって――

かつてのハプニングバーにも「濃さ」はなくなった。
しかし、かつての祝祭で浴びた強い光によって、私はまだ微かではあるが眩暈の中にいる。
失われつつある光を追い求めるのが、私がこのようなコラムを執筆し続ける内発的な動機だ。

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そろそろ筆を置くことにしよう、ゴダールへのオマージュとともに、そしてシニカルに。

ハプニングから遠く離れて――

【了】

【更新履歴】
2022/09/30公開
2022/10/01脚注追記

  • 1
    ドイツの画家。ドレスデンに生まれる。1948年から舞台や看板のデザインを学びはじめ、58年ドレスデンの美術学校に入学、主に写実主義的な絵画を学ぶ。看板のデザインや写実主義芸術は、旧東ドイツのような社会主義国家では、大いに奨励された芸術だった。(日本大百科全書)
  • 2
    ドイツの写真作家。ライプツィヒ生まれ。1978年から81年まで、エッセンのフォルクバング総合大学で学ぶ。85年にデュッセルドルフ美術アカデミーのベルント・ベッヒャーのクラスに入り、87年に最初の個展を開く(日本大百科全書)。
  • 3
    写真家、美術作家。東京都生まれ。1970年(昭和45)立教大学経済学部を卒業後、渡米。ロサンゼルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学び、74年ニューヨークに移住。当時のアメリカ美術のメイン・ストリームを形づくっていたミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの影響のもとに制作活動を始めた。(日本大百科全書)
  • 4
    日本の社会学者・映画批評家。社会学博士(東京大学・1990年)(学位論文「権力の予期理論〜了解を媒介にした作動形式〜」 )。東京都立大学教授。大学院大学至善館特任教授。(Wikipedia)
  • 5
    1933年から45年までのナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺をさす。600万人が殺されたといわれる。(日本大百科全書)
  • 6
    日本の哲学者、小説家。研究分野は、哲学および表象文化論。学位は、博士(学術)(東京大学・課程博士・2012年)。立命館大学大学院先端総合学術研究科、同大学衣笠総合研究機構生存学研究所教授。(Wikipedia)
  • 7
    経済学者、社会思想研究者。神戸市に生まれる。1979年(昭和54)京都大学経済学部卒業。1981年同大学院経済研究科博士課程中退。同大学人文科学研究所助手を経て、1989年(平成1)より同経済研究所助教授。2008年より京都造形芸術大学大学院長、のち同大学院学術研究センター所長。(日本大百科全書)
  • 8
    ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月9日)は、フランスの哲学者である。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。(Wikipedia)
  • 9
    恒星が急激に増光して新星の100万倍もの明るさになり、以後ゆっくり暗くなっていく現象。質量の大きな星が恒星進化の最終段階で大爆発を起こしたものと考えられる。爆発後に中性子星が残されることもある。スーパーノバ。SN。(デジタル大辞泉)

    皮肉ではないが、我々がスーパーノヴァの光を見ている時、すでにその光を放った星は存在しない。それは東氏の姿と重なる。『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』での鮮烈なデビュー後は、活動の場をフランス現代思想から、サブカルチャーの批評に移していったからだ。ゲームやアニメなどのサブカルチャーに素養のない私にとって、すでに哲学者東浩紀は不在であり、微かに感じられる余光のみがデリダとの接点になった。(ハプガチ!)
  • 10
    ゼロ年代以降をリードすると言われる批評家、思想家。もともとは、柄谷行人が主宰する雑誌「批評空間」(1991~2000年)でデビューし、「郵便的」とか「動物化」などの術語を駆使し、柄谷、浅田彰以降の現代思想の業界でスター扱いとなった。(情報・知識 imidas)
  • 11
    浅田氏が編集に携わっていた季刊誌『InterCommunication』(1992~2008)が美術批評に興味持つきっかけであったように思う。(ハプガチ!)
  • 12
    フランスの哲学者。その独創的な概念体系と戦闘的な文体によって,いわゆるポスト構造主義哲学の最も強力な思想家として1960年代以降,フランスばかりでなく,日本も含めた世界各国の思想界に強い衝撃を与えた。(デジタル版 集英社世界文学大事典)
  • 13
    比類なく繊細・緻密な散文をもって,時代の要請に根底からこたえる文学活動を展開した現代ドイツの文学者,哲学者,社会科学者。ベルリンのユダヤ系の家庭に生まれる。ドイツ観念論哲学の伝統から,とりわけその批判的精神を学びとった彼は,はやくから自覚的に,批評性とアクチュアリティを優れた文体において実現することを自身の課題としつつ,《ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念》(1920),《ゲーテの〈親和力〉》(1924),《ドイツ悲劇の根源》(1928)などの文学論のみならず,《暴力批判論》(1921)のような文章をも書いた。(世界大百科事典)
  • 14
    W,ベンヤミンは人間と事物の交渉の一回性と全体性を,この言葉で表現し,複製技術の制覇による〈アウラの消滅〉を現代文明の特質とした。(世界大百科事典)
  • 15
    ソ連邦の文芸学者。1920年代に文筆活動を始める。バフチンの名で出た著作以外に,《フロイト主義》(1927)や《マルクス主義と言語哲学》(1929)をはじめとするV.N.ボロシノフ名義の一連の著作,《文学研究における形式的方法》(1928)といったP.N.メドベジェフ名義の著作も事実上バフチンのものであるとの説もある。(世界大百科事典)
  • 16
    カーニバルとは古代より続く、国や地域の違いによって様々な形態をとる祭りのことである。カーニバルにおいては、人々の間に通常存在する社会的、身分的な距離が取り払われ、無遠慮な人々の交わりが見られる。また、カーニバルは、動物が人間の衣装を着たり、貧民が国王に扮して国王の衣装を着たりする、価値倒錯の世界でもある。
    古代より、広場はカーニバル性をもった場所であった。バフチンによれば、特に中世の人々は、規則にがんじがらめの生活と、カーニバル性を持った広場における生活との、二重生活を送っていたという。カーニバル広場においては、不謹慎、神聖なものに対する冒涜や格下げなど、あけっぴろげな生活が見られたという。(Wikipedia)
  • 17
    フランスの映画監督。批評家出身で,映画に対する深い愛情と鋭い批評意識に貫かれた斬新(ざんしん)な作品を数多く発表,フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの第一人者としてのみならず,現代の最も重要な監督の一人として活躍を続ける。(デジタル版 集英社世界文学大事典
  • 18
    評論家。北海道出身。東大入学後にブントのメンバーとなり、東大自治会委員長として安保闘争に参加した。安保闘争から離脱後は東大大学院で近代経済学を専攻し、横浜国立大学助教授、東大助教授、英米への留学を経て東大教授となる。1980年代から保守の論客として活躍し、東大駒場騒動の際に東大教授を辞職。それ以後は在野の評論家として評論活動を行った。2018年に多摩川にて自決する。(Wikipedia)
  • 19
    『ベトナムから遠く離れて』(ベトナムからとおくはなれて、仏語: Loin du Vietnam)は、映画監督のクリス・マルケル製作による、1967年製作のフランスのオムニバスドキュメンタリー映画である。参加監督はオランダの映画監督ヨリス・イヴェンス、フランスのアラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダール、アメリカのウィリアム・クライン。(Wikipedia)
  • 20
    蓮實 重彥(はすみ しげひこ、1936年(昭和11年)4月29日 - )は、日本の文芸・映画評論家、フランス文学者、小説家。専攻は表象文化論。(Wikipedia)

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