【はじまりの記憶】ハプニングの起源について

2022-09-21

前衛芸術としてのハプニング

今回のコラムでは、「ハプニング」という言葉をめぐる記憶を辿ることによって、ハプニングバーのルーツを明らかにしていきたい。

そのため、本稿の目的はハプニングバーの成立以前よりハプニングが存在していたと仮定し、ハプニングバーではなく、ハプニングの歴史を考察することによって、ハプニングバーの深い根源に光を当てることにある。

端的に言えば、「ハプニングバー」ではなく「ハプニング」がテーマだ。

ところで、ハプニングバーの始祖が、2000年にオープンした「グランブルー」であることは、これまでにも述べてきたとおりである。

【ハプバー考古学#03】Le Grand Bleu 〜深く潜る

ハプニングバーという言葉を命名したことが同店であることが、その理由だ。

いまでは当たり前のように、“ハプニングバー”という名称を使用しているが、実は、日本で最初にハプニングバーという呼称を採用したのは「グランブルー」。

同店を取材した記者と、相談しながら、名づけたそうだ。

「遊びの学校」第七回公開講座

では、ハプニングという言葉の起源は何か。

命名者はハプニングという言葉に、何か特別なイメージを抱いていたはずだ。
そうでなければ、このような名前は付けようもなかったからである。

辞書的な意味を超えて「ハプニングバー以前に、ハプニングという言葉が持っていたイメージは何か?」
とりあえずの命題には、それが相応しいだろう。

一回性の行為を中核とした表現形式を指す。〈偶発的なできごと〉を意味する日常的な英語であるが,1960年代,とくにアメリカの美術家たちが,表現の新しい領域として〈アクション〉に注目したとき,〈ハプニング〉は独特の響きをもつ美術用語となった。命名者はA.カプロー1アメリカの美術家。ハプニングの創始者。前衛作曲家J.ケージの影響を受け,〈日常と芸術との境目をあいまいにする〉ことを目ざした。最初は,廃物で構成された〈環境〉作品を作り,やがて1962年,人間の行為と環境とが交錯し,衝突するハプニングをはじめて発表した。大著《アッセンブリッジ・環境・ハプニング》(1966)に見られるとおり,きわめて理論的批評的知性の持主でもある。(世界大百科事典)で,1959年ニューヨークのルーベンReuben画廊で《六つの部分からなる18のハプニング》を発表したとき,この語が用いられた。三つの部屋で,光,映像,言葉,オブジェなどを伴って,多くの参加者がさまざまな行為を行った。この催しでは,ハプニングにおいて〈自発的な,起こるべくして起こる何か〉(カプロー)が重要視され,一回性の偶然や自発性が強調されたのである。

世界大百科事典

実はハプニングという概念は、1960年代のアメリカのアートシーンで生まれた美術用語だ。

さらに興味深いのは、そのルーツにある。

カプローのハプニングの淵源には,J.ポロックのアクション・ペインティングとJ.ケージの偶然性の音楽があった。

同上

ここにおいて注目したいのは、アメリカの作曲家、ジョン・ケージ2アメリカの作曲家。1950年代より〈偶然性の音楽〉によって欧米の前衛的作曲家に大きな影響を与えた。カウエル,シェーンベルクに学んだ後,1930年代末より打楽器アンサンブルを組織し,カリフォルニアを中心に演奏活動を行う。(世界大百科事典)が提唱した「偶然性の音楽」の影響を受けているという点である。

主張すべきは、ケージの提唱する「偶然性の音楽」を巡る、フランスの作曲家ピエール・ブーレーズ3フランスの作曲家,指揮者。ロアール県の技師の家庭に生まれ,早くからピアノを学び,聖歌隊の隊員として音楽に親しむ。1943年パリ音楽院に入学,メシアンに作曲を師事し,ドビュッシー,ストラビンスキー,シェーンベルクなどの作曲技法を習得した。(世界大百科事典)との対立だろう。

ジョン・ケージと往復書簡を交わすほかダルムシュタット4ダルムシュタット夏季現代音楽講習会(ダルムシュタットかきげんだいおんがくこうしゅうかい、Internationale Ferienkurse für Neue Musik, Darmstadt)は、ドイツのダルムシュタットで1947年より行われている、世界的に名の知られた現代音楽の講習会であり、現在も大きな影響力を持っている。(Wikipedia)などで交流し、偶然性を導入する。ただしケージなどアメリカ作曲界は偶然性を不確定性(チャンス・オペレーション)として導入したのに対し、ブーレーズをはじめヨーロッパ作曲界は「管理された偶然性」とし、偶然性の結果によってどんなに音楽が異なる解釈をされようとも、全体としては作曲者の意図の範囲で統率されるべきとした。

Wikipedia

ケージのいう偶然性は不確定性を重視する一方、ブーレーズは「管理された偶然性」として、作曲家の統率性を主張する。

ここで明らかになるのは、アメリカとヨーロッパの思想の根底を支える、いささかねじれた構図である。
つまり、人により管理された状態を自然と捉えるヨーロッパの伝統に対し、あくまでアメリカはありのままを自然として受け入れる。
平たくいえば、管理主義のヨーロッパ、自然放任主義のアメリカである。


実は思想史としては、後者のスタンスの方が先進的であるため、日本人はこの図式をしばしば混同することになる。

ともあれ、ハプニングの先行事例が日本に見られるのは偶然とはいえないだろう。

日本では,50年代前半に具体美術協会5吉原治良(1905-72)を軸に1954年12月,芦屋市で関西の若手作家を中心に設立された美術家団体。(世界大百科事典)が野外や舞台で偶発的なアクションをくりひろげており,ハプニングの先駆例として評価されており、フルクサス61960年代に,ハプニングを表現形態として活動を行った国際的な芸術家のグループ。名称はラテン語に基づき〈流体の〉〈崩壊途上の〉などの意。その前史として,作曲家J.ケージを中心に1950年代アメリカで見られたハプニングの原型をなす催しがある。(世界大百科事典)よりも活動が古い。

世界大百科事典

また、日本人とハプニングの結びつきについていえば、1960年代に草間彌生7美術家。長野県生まれ。県立松本第一高等女学校在学中から絵を描き始める。女学校入学のころから物体の回りにオーラが見え、動植物の会話が聞こえるという幻覚体験が始まり、それを絵画として制作する。(日本大百科全書)がアメリカのアートシーンで「ハプニングの女王」の異名をとっていたし、オノ・ヨーコ8コンセプチュアル・アーティスト。東京生まれ。本名小野洋子。銀行家だった父の仕事の事情で幼少より日本とアメリカに住む。学習院大学で哲学、ニューヨークのサラ・ローレンス・カレッジで芸術を学ぶ。(日本大百科全書))はハプニングの創始者カプローと交流もあり、フルクサスにも参加していた。

ハプニングは青山通りから

では、日本においては、ハプニングはどのように受容されてきたのだろうか。

実はハプニング発祥の地は、われわれの想像に反して、歌舞伎町の雑居ビルではなく、青山通りにある「草月会館」(草月流9勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)によって1927年に創流された近代いけばなの流派。現在大手三派と俗称される池坊・小原・草月の三流の一つ。蒼風の父,和風は池坊未生流などの花技を学び,のちに流派を否定して〈日本生花学会〉を主宰していた。(世界大百科事典)という近代いけばな流派の会館)である。

草月会館において、1958年9月に映画監督の勅使河原宏10映画監督、陶芸作家、いけ花の草月会3代目家元。東京生まれ。宏が生まれた年に、初代家元の父蒼風 (そうふう) は東京・青山で草月会を創流した。幼年時代より父親のいけ花表現のモダニズムに触れ、のちの幅広い創造活動に影響を受けた。(日本大百科全書)によって設立された組織であり、60年代を通して日本国内の前衛的な芸術・文化を牽引する中心的な存在となった。現代音楽、ジャズ、映画、実験映画、アニメーション、演劇、ハプニングなど、きわめて幅広い領域にわたるイヴェントを草月会館、および外部の会場において開催し、機関誌『SAC』を刊行した。

artscape

たとえば1962年には前述のケージが草月ホール11草月は勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)によって1927年に創流された近代いけばなの流派として知られるが、同流派の前衛芸術にも力を入れており、青山通りにある草月ホールはその象徴的な建物である。本論にて後述するが、1967年には「アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル」を開催していることから、「アングラ」という言葉の原点をここに求めることができよう。(ハプガチ)で公演を果たすなど、ハプニングがハイソサエティな文化であったことがうかがえる。

青山通りのいけばなの会館と歌舞伎町の雑居ビルという、両者のイメージギャップもさることながら、歌舞伎町の雑居ビルにハプニングバー「グランブルー」が誕生するまでには、実に40年以上の歳月を要することに驚嘆する。

ここでは、この歴史的な距離感の秘密を紐解くことがわれわれの課題になろう。

1968年には深夜番組のタイトルに用いられるなど、すでにハプニングという言葉は大衆に流行していたようである。

1950年代のはじめの吉原治良を中心とした具体美術協会のアクションをひとつの表現とみなした活動。1960年代のテレビ番組「木島則夫ハプニングショー」12『木島則夫ハプニングショー』(きじまのりおハプニングショー)は、1968年5月18日から同年10月12日まで日本テレビ系列局で放送された生放送のワイドショー。木島則夫の冠番組。放送時間は土曜 22:30 - 23:30 (JST) (Wikipedia)

カプローが前衛的な芸術運動としてハプニングを起こしたのが1962年であることを考えると6年という時間は興味深い。(ハプガチ!)
で「ハプニング」という言葉が流行。

Wikipedia

このように60年代後半には、ハプニングという言葉が前衛芸術のようなハイカルチャーから大衆へ移っていたことは明らかになったが、地理的な拠点が新宿から移ったのはどのような経緯だろうか。

それは「アングラ」という言葉を補助線にすると浮かび上がってくるのではないか。

「アングラ」が何であるかは本稿の趣旨から外れるため割愛するが、ハプニングと近接的な概念であることに疑う余地はない。
注釈のとおり、1967年には、当時のハプニングのメッカ、草月会館で「アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル」というイベントも催されている。

驚くべきことに、このイベントが「アングラ」の語源となったようである。

アングラ

一九六七年頃から登場しはじめた「アンダーグラウンド映画」から「アングラ」が一般的になった。昭和四二年(一九六七)、東京の草月会館の実験映画会から流行したともいわれ、以来、反体制、反社会、反商業主義の前衛的な芸術・文化・風俗を指すようになったが、七〇年代以降次第に使われなくなった。

日本国語大辞典

そしてアングラは青山通りのいけばな流派の会館から、西麻布の小劇場を経て、新宿の雑居ビルへと移動する。
ビルの地下にあったことから、劇場名が「アンダーグラウンド・シアター」となり、それが略されて、アングラ演劇がブームになる。

アンダーグラウンド・シアター自由劇場

東京都港区西麻布にあった小劇場「自由劇場」の通称のひとつ。1966年開館。1996年閉館。ビルの地下階にあったことからこう呼ばれた。この名称が“アングラ演劇”(アングラはアンダーグラウンドの略)という日本では1960年代から70年代にかけて発生した小劇場演劇のムーブメントをさす呼称の起源とも言われる。

デジタル大辞泉プラス

アングラ演劇13アングラ演劇(アングラえんげき)とは、日本の1960年代中期から1970年代前半にかけて全盛期を迎えた舞台表現(主に演劇)の潮流である。「アングラ」とはアンダーグラウンドの略語。見世物小屋的要素を取り込み、それまでの近代演劇(新劇など)が排除した、土俗的なものを復権させたのが一つの要素で、独特の世界を作り上げた。「天井桟敷」や「状況劇場」が代表的な劇団だった。(Wikipedia)が、新宿で隆盛14たとえば寺山修司の主催劇団「天井桟敷」の第一回公演は、1967年に草月ホールで上演されるが、アングラ劇団ブームが起こって以降の1979年には、新宿・花園神社隣にあったスナックを公演用に改装して公演。また、唐十郎の「状況劇団」も1968年は花園神社境内で公演を行っている。演劇以外のブームでいえば、ジャズクラブの新宿ピット・インがブームになったり、1968年にベトナム反戦運動を背景として新宿騒擾事件が発生するなど、1960年代後半は新宿が文化や政治の中心地であったことが伺える。
1960年代後半はフランスで5月革命(運動のスローガンは「Egalité! Liberté! Sexualité!―平等!自由!セクシャリティ!」である)が起こったり、世界的にカウンターカルチャーが隆盛を極めるなかで、日本においても、最先端のアート、演劇、音楽などが、ハイカルチャーからカウンターカルチャーへ転換したことに伴い、その発信地も青山から新宿へ移転したのではないかと考えらえる。同様にハプニングもハイカルチャーからカウンターカルチャーへ変容したものといえよう。
クラブとハプニングバーの関係性については、別の機会にコラムのテーマとしたいが、バブル崩壊以降の90年代(クラブカルチャーは1980年代後半の西麻布で誕生した)にはクラブカルチャーと
15もに、アングラも渋谷に移転する。例えば、初期のデパートメントH(現在は同じくホテル街の鶯谷)は、クラブ丸山やOn Air Westといったラブホテル街にあるクラブで行われていた。また、2006年オープンのSBも、渋谷という場所柄、当時のクラブをイメージした店作りにしていたようである。(ハプガチ!)することから、アングラの中心地は青山通りから新宿へ「遷都」する。
ハプニングはアングラと同様にカウンターカルチャーとして一つに括られ、大衆運動に転化したのである。

それから30年程度経ち、歌舞伎町の雑居ビルで「ルグランブルー」のオーナーは、1970年前後に存在したカウンターカルチャーのリバイバルを意識して「ハプニングバー」と命名したのではないだろうか。

2000年近辺ではやや陳腐な意味合いを持っていたであろう、ハプニングという言葉をバーの名前に転換させた手法は見事としか言いようがない。

コラムにおいて、ある時期から私が「ハプバー」の略記ではなく、「ハプニングバー」を用いるようになったのも、今まで記してきた歴史的な経緯に対するリスペクトによるものだ。

太古の海

コラムタイトルの「はじまりの記憶」は、現代美術家杉本博司、写真家、16美術作家。東京都生まれ。1970年(昭和45)立教大学経済学部を卒業後、渡米。ロサンゼルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学び、74年ニューヨークに移住。当時のアメリカ美術のメイン・ストリームを形づくっていたミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの影響のもとに制作活動を始めた。1970年代後半から「ジオラマ」「劇場」「海景」という写真作品のシリーズを並行して発表。(日本大百科全書)のドキュメンタリー映画の題名から拝借したものだ。

杉本はこう語っている。

「私の血は、何百世代、何千世代前の先祖の血と繋がっているはずだ、その先祖が見ていた海は、今私が見ている海と、おそらく大きくは変わっていないのではないのか

「地上はどうだろう。人は文明を興し、森を切り、田畑を作り、都市までも作り上げてしまった。古代人の見た風景の痕跡はそこにはない

私の履歴書

杉本は地上の風景ではなく、海に人間の原風景を追い求めた。
われわれのはじまりの記憶は海のなかにある。

日本初のハプニングバーがオーナーは、天才ダイバー、ジャック・マイヨールを実在のモデルとした映画「グランブルー」から名前を拝借して、歌舞伎町に店を開いた。

地下(アングラ)の風景は、海と同じように変わらないというメッセージが込められているかのようだ。ハプニングとアングラの歴史を調べあげ、このコラムを書き終えようとしている私にはそのように思える。

われわれのはじまりの記憶は、海だけではなく地下にもある――

【了】

【更新履歴】
2022/09/22公開
2022/09/25更新(注釈追加)

  • 1
    アメリカの美術家。ハプニングの創始者。前衛作曲家J.ケージの影響を受け,〈日常と芸術との境目をあいまいにする〉ことを目ざした。最初は,廃物で構成された〈環境〉作品を作り,やがて1962年,人間の行為と環境とが交錯し,衝突するハプニングをはじめて発表した。大著《アッセンブリッジ・環境・ハプニング》(1966)に見られるとおり,きわめて理論的批評的知性の持主でもある。(世界大百科事典)
  • 2
    アメリカの作曲家。1950年代より〈偶然性の音楽〉によって欧米の前衛的作曲家に大きな影響を与えた。カウエル,シェーンベルクに学んだ後,1930年代末より打楽器アンサンブルを組織し,カリフォルニアを中心に演奏活動を行う。(世界大百科事典)
  • 3
    フランスの作曲家,指揮者。ロアール県の技師の家庭に生まれ,早くからピアノを学び,聖歌隊の隊員として音楽に親しむ。1943年パリ音楽院に入学,メシアンに作曲を師事し,ドビュッシー,ストラビンスキー,シェーンベルクなどの作曲技法を習得した。(世界大百科事典)
  • 4
    ダルムシュタット夏季現代音楽講習会(ダルムシュタットかきげんだいおんがくこうしゅうかい、Internationale Ferienkurse für Neue Musik, Darmstadt)は、ドイツのダルムシュタットで1947年より行われている、世界的に名の知られた現代音楽の講習会であり、現在も大きな影響力を持っている。(Wikipedia)
  • 5
    吉原治良(1905-72)を軸に1954年12月,芦屋市で関西の若手作家を中心に設立された美術家団体。(世界大百科事典)
  • 6
    1960年代に,ハプニングを表現形態として活動を行った国際的な芸術家のグループ。名称はラテン語に基づき〈流体の〉〈崩壊途上の〉などの意。その前史として,作曲家J.ケージを中心に1950年代アメリカで見られたハプニングの原型をなす催しがある。(世界大百科事典)
  • 7
    美術家。長野県生まれ。県立松本第一高等女学校在学中から絵を描き始める。女学校入学のころから物体の回りにオーラが見え、動植物の会話が聞こえるという幻覚体験が始まり、それを絵画として制作する。(日本大百科全書)
  • 8
    コンセプチュアル・アーティスト。東京生まれ。本名小野洋子。銀行家だった父の仕事の事情で幼少より日本とアメリカに住む。学習院大学で哲学、ニューヨークのサラ・ローレンス・カレッジで芸術を学ぶ。(日本大百科全書))
  • 9
    勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)によって1927年に創流された近代いけばなの流派。現在大手三派と俗称される池坊・小原・草月の三流の一つ。蒼風の父,和風は池坊未生流などの花技を学び,のちに流派を否定して〈日本生花学会〉を主宰していた。(世界大百科事典)
  • 10
    映画監督、陶芸作家、いけ花の草月会3代目家元。東京生まれ。宏が生まれた年に、初代家元の父蒼風 (そうふう) は東京・青山で草月会を創流した。幼年時代より父親のいけ花表現のモダニズムに触れ、のちの幅広い創造活動に影響を受けた。(日本大百科全書)
  • 11
    草月は勅使河原蒼風(てしがはらそうふう)によって1927年に創流された近代いけばなの流派として知られるが、同流派の前衛芸術にも力を入れており、青山通りにある草月ホールはその象徴的な建物である。本論にて後述するが、1967年には「アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル」を開催していることから、「アングラ」という言葉の原点をここに求めることができよう。(ハプガチ)
  • 12
    『木島則夫ハプニングショー』(きじまのりおハプニングショー)は、1968年5月18日から同年10月12日まで日本テレビ系列局で放送された生放送のワイドショー。木島則夫の冠番組。放送時間は土曜 22:30 - 23:30 (JST) (Wikipedia)

    カプローが前衛的な芸術運動としてハプニングを起こしたのが1962年であることを考えると6年という時間は興味深い。(ハプガチ!)
  • 13
    アングラ演劇(アングラえんげき)とは、日本の1960年代中期から1970年代前半にかけて全盛期を迎えた舞台表現(主に演劇)の潮流である。「アングラ」とはアンダーグラウンドの略語。見世物小屋的要素を取り込み、それまでの近代演劇(新劇など)が排除した、土俗的なものを復権させたのが一つの要素で、独特の世界を作り上げた。「天井桟敷」や「状況劇場」が代表的な劇団だった。(Wikipedia)
  • 14
    たとえば寺山修司の主催劇団「天井桟敷」の第一回公演は、1967年に草月ホールで上演されるが、アングラ劇団ブームが起こって以降の1979年には、新宿・花園神社隣にあったスナックを公演用に改装して公演。また、唐十郎の「状況劇団」も1968年は花園神社境内で公演を行っている。演劇以外のブームでいえば、ジャズクラブの新宿ピット・インがブームになったり、1968年にベトナム反戦運動を背景として新宿騒擾事件が発生するなど、1960年代後半は新宿が文化や政治の中心地であったことが伺える。
    1960年代後半はフランスで5月革命(運動のスローガンは「Egalité! Liberté! Sexualité!―平等!自由!セクシャリティ!」である)が起こったり、世界的にカウンターカルチャーが隆盛を極めるなかで、日本においても、最先端のアート、演劇、音楽などが、ハイカルチャーからカウンターカルチャーへ転換したことに伴い、その発信地も青山から新宿へ移転したのではないかと考えらえる。同様にハプニングもハイカルチャーからカウンターカルチャーへ変容したものといえよう。
    クラブとハプニングバーの関係性については、別の機会にコラムのテーマとしたいが、バブル崩壊以降の90年代(クラブカルチャーは1980年代後半の西麻布で誕生した)にはクラブカルチャーと
  • 15
    もに、アングラも渋谷に移転する。例えば、初期のデパートメントH(現在は同じくホテル街の鶯谷)は、クラブ丸山やOn Air Westといったラブホテル街にあるクラブで行われていた。また、2006年オープンのSBも、渋谷という場所柄、当時のクラブをイメージした店作りにしていたようである。(ハプガチ!)
  • 16
    美術作家。東京都生まれ。1970年(昭和45)立教大学経済学部を卒業後、渡米。ロサンゼルスのアート・センター・カレッジ・オブ・デザインで写真を学び、74年ニューヨークに移住。当時のアメリカ美術のメイン・ストリームを形づくっていたミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの影響のもとに制作活動を始めた。1970年代後半から「ジオラマ」「劇場」「海景」という写真作品のシリーズを並行して発表。(日本大百科全書)

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